水天宮
トイレ🚻有り 駐車場🅿有り 車椅子♿○
御祭神
天之御中主神 安徳天皇 高倉平中宮 二位の尼
安徳天皇は源平合戦で負け僅か8歳で入水し唯一戦乱で亡くなった天皇 高倉平中宮は安徳天皇の母親です 二位の尼は安徳天皇のお婆ちゃんです
安徳天皇と一緒に入水したのがお婆ちゃんの二位の尼と言われています。その時三種の神器の天叢雲剣後の草薙の剣を持って入水した 福岡には安徳天皇を祭神として祀っている神社が数多くあるので生き延びたものと思われます。
天之御中主神は原初の三神の筆頭で 別の名を白山姫、菊里姫とも言います。 イザナギイザナミよりも前に居た女神で 久留米、九州、日本でも古い神様のお一人なので水天宮は高良大社よりも古い神社となりますね🐈 この天之御中主神のこの主が付く一族が 天照大御神の一族よりもスサノオの一族よりも前に日本の礎を築いた方達です。
この方達のルーツは
中国雲南省大理ペー族自治州を中心に住むチベット系民族。人口の8割はシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派のペー語を話し、残りは主に中国語を使用しています。雲南省以外では、貴州省畢節地区、四川省西昌市、湖南省桑植県、ミャンマー北部などにも分布し、かつては大理国を作り、漢族との交流の歴史も長く、ペー語、漢字を借用したり、漢字の構成方法を応用して作った漢字風の文字を組み合わせて記述したり、借用語として多くの漢語をペー語に取り入れている。 これが白山姫のルーツです。 天之御中主神、白山姫の 兄にあたる方が白川伯王 この白川伯王の子に大幡主(博多櫛田神社の祭神)大幡主の子に豊玉彦 この豊玉彦が八咫烏です
東京水天宮の取説から
水天宮の発祥は九州の久留米藩(現在の福岡県久留米市)です。9代目久留米藩主の有馬頼徳が、1818年、自家で祀っていた水天宮を三田赤羽の上屋敷に分祀したのが、東京の水天宮の始まりです。 水天宮は東京にもあります🐈
水天宮本殿右奥にウマシアシカビヒコヂを祀る秋葉神社があります、この方は天之御中主神の旦那さんなのですが一緒に祀られない理由がありました。 ウマシアシカビヒコヂは朝鮮出身だったので日本の神には出来ないという意見があり やむなく天之御中主神だけを祀り 有馬頼徳が東京水天宮に分祀したときに ウマシアシカビヒコヂは東京水天宮に祀る形を取りました。 今では境内社でウマシアシカビヒコヂを祀っておられますね🐈
最後に中国雲南省大理ペー族の出身で 漢の絶世の四大美女に王昭君(オウショウクン)という女性が居ります。この末裔が私達ですよ というものを水天宮で見ることができますよ
椿の家紋である水天宮の周りにはたくさんの椿が植樹されています。 花言葉は「気取らない優美さ」「控えめなやさしさ」などがあります。...
Read more全国にある水天宮の総本宮と言われ、現在は別表神社に列せられています。 御祭神は天之御中主神と安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院・安徳天皇の母君)、二位ノ尼(源平合戦で安徳天皇を抱いて入水した尼)の4柱。創建の由来によると高倉平中宮に使えていた按察使局(あぜちのつぼね)伊勢という女官が、源平合戦の後、筑後川の鷺野ヶ原に逃れて来て、建久元年(1190年)に初めて水天宮を祀ったのが嚆矢とされる。当時の筑後川流域は合戦の戦場になる事が多く、幾度かの遷座を経て慶安3年(1650年)に現在の地に鎮座されたのだという。伊勢は後に千代と名前を変え中納言平知盛の孫、右忠(すけただ)を養い後嗣とし爾来代々その子孫が宮司をつとめているとの事。第22代宮司の真木和泉守は勤王党の旗頭としても有名。 境内は筑後川に沿い横に長い配置。 唐破風のある神門を抜けると石畳の参道が社殿に延びています。社殿は入り母屋平入り、拝殿前に唐破風が付いた軒を持つ流れ造り。本殿屋根に6本の鰹木と内削ぎの千木のある屋根を持ちます。 祭神の一柱、アメノミナカヌシは造化の三神の御一人とされていますが、性別は解らず古事記でも日本書紀でもはっきりとした記述が無い謎に包まれた古い神様らしいのです。平田篤胤によれば最高神という解釈をしているようですが、異論もあるとの事。 それはさておき、境内は心地のいい川風が吹く地にあり、木立が陽を遮っているのもあり、凛とした空気感が漂っており、水天宮総本宮としての威厳も感じました。ただ敷居が高いという訳ではありません。河童の可愛い御守りがあったりと親しみやすい感じも受けました。 境内には按察使局を祀る千代松神社、水の神様であるミツバノメノカミ、安産の神様であるウガヤフキアエズノカミを祀る水神社、体の痛い所と同じ場所を擦れば平癒するという肥前狛犬等々あります。駐車場は数十台分無料で用意されています。社務所で御朱印も頂けます。...
Read more水天宮(すいてんぐう)。 旧社格は県社。 全国にある水天宮の総本宮。
資料によると、 社伝によれば、寿永4年(1185年)、高倉平中宮に仕え壇ノ浦の戦いで生き延びた按察使局伊勢が千歳川(現 筑後川)のほとりの鷺野ヶ原に逃れて来て、建久年間(1190年 -...
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