万葉歌人の大伴家持ゆかりの神社
万葉線の東新湊電停から徒歩にて約7分くらいかかります。
放生津八幡宮(ほうじょうづはちまんぐう)
天平十八年(746年)、越中国司として赴任した大伴家持(おおとものやかもち)が奈吳之浦の風光を愛して豊前国(大分県)から宇佐八幡神 を勧請して奈兵八幡宮と称し、正和年間に越中守護名越時有が社殿を造営したと伝えられる。
室町時代には、放生津が石清水八幡宮領となり、放生津湊に出入りする船の課役を八幡宮が担ようになった。 明応の政変(1493年)を避けた室町幕府十代将軍足利義材(義植)が放生津を御座所とした頃、当宮から出された金塗の神輿が放生津の街を巡行した。
永禄六年(1563年) 越中一向一揆勢の神保氏椎名氏 連合軍と、上杉謙信との合戦によって、社殿を焼失するが、 神保長職が再興したとされ、天正九年(1581年) 「放生津八幡領町」として、当宮とその周辺が、放生津 の中心地となっていた。
江戶時代には、歷代加賀藩主に崇拝され、嘉永三年(1850年)、十三代藩主、前田斉泰が参拝した際には、当宮裏手 に砲台場を設けるため視察した。
安政四年(1857年)、当地出身の知恩院第七十一世萬誉上人の依頼により左大臣近衛忠熙が真筆の神額を奉納した。 現在の社殿は放生津の宮大工高瀬輔太郎の傑作で、文久三年(1863年)の再典である。
每年十月一日、秋季祭礼の神輿渡御に供奉する豪華な曳山は、慶安三年(1650年)の創設と伝えられ、文久二年 (1862年)に、現在まで伝えられる十三町の曳山が出揃った。 翌十月二日の例大祭日には、境内東側に飾られる築山や地名の由来となった放生会神事など、古代の素朴な信仰の...
Read more裏通りも風情があり、松ノ木の聳えてる具合は室町時代か江戸時代か🐉
日曜日でしたが拝殿にてお祈りをすると、神主さんが風雅に締太鼓を叩いてくれます。去ると風雅に演奏が終わります。日本全国行ってますがこういうのは初めてでした。
あと拝殿にいるケヤキの寄せ木造りの大きな狛犬がすばらしいです。狛犬に魅入ったのは初めてでした。この市出身の矢野啓通という天才木彫り師が19歳のときに彫ったというもの。その後、その人は宮内庁の御用達をつとめたようだ。
また、トイレに入るとセンサーで演歌のBGMが流れ始めます。トイレまで風雅です。
境内は大伴家持の俳句が飾られており、「桜か梅の花が舞っていて、それがまるで女性のおしろいみたいだ」という奇抜さのない詩だけれど、大伴家持は素直にそう思っただろうなと思えました。(奇抜な発想の詩は逆に、おもしろいけど本当にそう思ってはいないかもしれない要素もある)。 しみじみとする古き良き時代。...
Read more放生津は京を追われた足利将軍家一〇代の義材が一時政庁を置いた場所で、放生津橋には銅像と案内板が置かれています。さような謂われのある地に鎮座する八幡宮ですから、なにがしかの史跡なり逸話なりがあったりするのかと思いきや、何もありません。 江戸時代に建てられた社殿はそれなりに立派ではあるものの、遠来の観光客を惹きつけるに足る魅力はなく、かつての景勝地である周辺も、護岸と築堤により見る影もありません。高岡の路面電車は観光案内を流しながら走るのですが、ここにげんきゅうがなかったのも無理なからぬように思えます。 旅程の都合により私はスルーしましたが、近くには海王丸があり、海鮮料理の美味しいお店がたくさんあるそうです。それらとあわせて立ち寄るぐらいが、ちょ...
Read more