県道180号線「薬王院前」バス停の向かいの一本道を入っていくと、住宅地の中に茅葺き屋根の風格ある仁王門が見えてきます。まるで京都の門跡寺院を思わせる佇まいの境内は広々として緑が深く、ここだけ違う空気が流れているようです。宗派は天台宗青蓮寺派、公家から嫁いできたという徳川光圀の正妻泰姫の菩提も弔われたという由緒あるお寺です。 仁王門の正面に見える本堂(室町期再建)は【国指定重要文化財】、本堂内の薬師如来坐像(平安時代作)や十二神将像(南北朝時代作)、仁王門(江戸期)は【県指定文化財】だそうです。本堂は残念ながら普段は閉まっており、毎年4月8日の花まつり(御釈迦様の誕生日)と5月最終日曜日(お田植祭)に一般公開されるとのことです。
例年花まつりの日は桜の満開とほぼ重なり、境内のしだれ桜が見事です。尚、花まつりの日は本堂には入れますが御本尊の薬師如来坐像の扉は閉まったまま。御本尊は年に一度、5月の最終日曜日にだけ御開帳だそうです(夕方4時ごろから)。本堂には他に十二神将像や、朽ちかけた一木造りの三体の仏像(平安仏三体)などが安置されており、それらはかなり近い位置から拝観することが出来ます。実は平安仏三体は「伝教大師(最澄)自作」の裏書があるそうですが、最澄本人がこの辺りまで実際にやってきたという確かな記録は残っていません。三体とも老朽化が激しく輪郭も危うい状態になってきていますが、もし裏書きが本当ならば、本堂にある仏像の中で一番価値があるのはこの朽ちた仏像でしょう。
境内の説明板によると開基は平安時代初期(800年頃?)に遡り、桓武天皇の勅願で伝教大師(最澄)が創建した、とあります。桓武天皇は奈良の寺院の影響力を排するために都を平安京に遷し、最澄や空海を登用して天台宗などの新仏教を支持し、地方政治にも力を注いだことで知られています。各地に作られた勅願寺もそうした改革の一環だったのでしょうが、それにしてもなぜこんな場所に?と、現在の水戸市の中心部からは離れているので不思議に感じます。しかし当時は勿論水戸城もまだなく、常陸三ノ宮でもある吉田神社(創建は490年ごろと言われている)のあるこの台地が、この辺りでは一番有力な土地だったのでしょう。
鎌倉時代初期からは吉田神社の別当寺となり「吉田神社神宮寺薬王院」と称したそうです。代々の領主の庇護を受けて次第に独立した力を持つようになり、室町時代に本堂が焼け落ちてしまった際も当時この地を治めていた江戸通泰により直ちに再建されました(1529年)。尚、佐竹氏の時代に一時真言宗に変えられたそうですがすぐに復されます。 江戸時代に入ってからは水戸徳川家の菩提寺となり別当職も廃されますが、光圀は本堂の解体改築修理を行い「土間床の禅宗様建物の如き姿に模様替え」してしまったそうです。
幕末になると神仏分離の風潮の中、藩主斉昭により境内にあった泰姫と亀千代丸(光圀の兄)の遺骨が瑞龍山に移され、その後は不遇の時代を迎えます。 明治13年の大火災により 「本坊を焼失し 古文書および寺宝等悉く灰燼に帰し、寺院の財力は窮乏し 老朽破損の極みに至った堂宇の抜本的修理が出来ないまま、幾星霜...
Read more薬王院は、天台宗のお寺です。平安時代の大同2年(807)、桓武天皇の勅願によって伝教大師最澄が創建したと伝えられています。 本堂は室町時代の大永7年(1527)に焼失しましたが、享禄2年(1529)に再建されました。江戸時代の貞享3年(1686)に水戸藩主徳川光圀によって大修理が行われました。...
Read more私が訪れるきっかけとなったのは、先だってお世話になった龍ヶ崎の‘来迎院’さんのご住職のお陰です😊。
水戸から来たことを告げると、同じ天台宗の‘薬王院’さんについても教えて下さいました🙇。
目から鱗‼️😲とは…。地元にいながら、大変恥ずかしくなる程立派なお寺さんでした😯👏。
茨城県にも、緊急事態宣言出てしまった😵💧ので、御朱印は頂けて無いですが…🥺。 早くコロナが収まってくれたら…(pq゚∀゚*○)良いですね👍️
自宅から遠くないので、また行きたい❗お寺さ...
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