犬と石垣と私
石垣FANです❤️壁紙にどうぞ
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用し築城を開始した。その後宝厳寺に対しては1598年に死去した豊臣秀吉の遺命として、大坂城の唐門などが移築されている。
同3・4年頃完成し羽柴秀吉が入城した。いわゆる水城であり湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。現在でも城下町には羽柴氏当時の面影や名残が残る。のちに天下人となる秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の領国・城下町経営の基礎を醸成した所とされている。
1581(天正9年)、織田氏の中国遠征で不在であった羽柴氏のあと、信長は荒木村重討伐や越前一向宗制圧の功から堀秀政を長浜城主に任じた。
1582年(天正10年)に本能寺の変が起こり、明智光秀の手により織田信長が殺害されると、明智に加担した山本山城主の阿閉貞征が長浜城を占領した。羽柴氏の妻ら係累は近隣の寺に逃れた。阿閉は山崎の戦いにも明智方として参加するが、明智は信長の仇討を掲げる羽柴方に敗戦し、阿閉は秀吉方に捕縛され阿閉一族全て処刑された。長浜城は羽柴氏の支配下に戻った。
1586年(天正13年)の天正地震により城が全壊し、城主山内一豊の息女が死亡した。この地震による側方流動で城の一部が琵琶湖に水没し、現在の長浜城遺跡・西浜千軒遺跡となったみられている。(琵琶湖湖底遺跡)
1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になるが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になった。資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。
現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにした復興天守で、市立長浜城歴史博物...
Read more長浜城 琵琶湖のほとりに佇む長浜城は、羽柴(後の豊臣)秀吉が初めて築いた居城として知られています。現在は当時の姿を偲ばせる再建天守が市民の憩いの場となっており、内部は長浜市歴史博物館として利用されています。ここでは、長浜の歴史や秀吉に関する資料が展示され、最上階の展望台からは琵琶湖の雄大な景色や市街地を一望できます。桜の名所としても有名で、春には湖畔公園と共に多くの花見客で賑わいます。歴史と自然が調和した美しい景色を楽しめる、長浜を代表するスポットです。
Nagahama Castle Nagahama Castle, nestled on the shore of Lake Biwa, is known as the first castle built by Hashiba (later Toyotomi) Hideyoshi. The reconstructed castle keep serves as a local gathering place, with its interior housing the Nagahama City History Museum. The museum features exhibits on Nagahama's history and Hideyoshi's life. From the top-floor observation deck, you can enjoy a magnificent panoramic view of Lake Biwa and the city. The castle is also a famous cherry blossom viewing spot, and in spring, the lakeside park is filled with many visitors enjoying the blooms. It's a key destination in Nagahama, where you can enjoy a beautiful landscape that harmonizes...
Read more長浜城(ながはまじょう)は、滋賀県長浜市公園町の豊公園内にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した日本の城跡。
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、1558年に火災に遭った竹生島宝厳寺の復旧資材として浅井長政が寄進した材木などを流用し築城を開始した。その後宝厳寺に対しては秀吉の遺命として大阪城の唐門などが移築されている。
同3・4年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。
1581(天正9年)中国遠征で、不在であった秀吉のあと、荒木村重討伐、越前一向宗制圧の功から堀秀政が、織田信長から長浜城主に任じられる。
1582年(天正10年)の本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家であった。勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城するが、同年末には勝家と対立した秀吉に攻められ、勝豊は城ごと降伏した。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が入り、6年間在城した。1586年1月18日(天正13年11月29日)には天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡した。
1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になるが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になった。資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移し...
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