興福山徳勝寺 (滋賀県長浜市平方町)<とくしょうじ>にあります。本山は、福井県の永平寺になります。
【宗派】曹洞宗 【開基】応永年間(1400年頃)通峰真宗和尚 【本尊】釈迦如来坐像 【由来】 ①もと小谷山の搦手門の近くの下山田にあり医王寺と称した。 ②永世15年(1518)浅井亮政(小谷城初代)は、小谷城下の清水谷(きよみずだに)に移築して浅井家の菩提寺にした。 ③長浜城完成のとき、城内へ移築して亮政の法号に因んで徳勝寺と改称して、浅井家の菩提を弔った。 ④ 慶長11年(1606)長浜城へ内藤信成が赴任した時、田町へ移転。 ⑤寛文12年(1672)平方の現地へ移転。 ⑥ 享保3年(1718)現在の本堂が完成。 ⑦現在でも、浅井家の菩提寺になっている。
【見どころ】 ①浅井家の木像=本堂の左の間に、浅井三代とお市の方の木像を安置。 ②薬師如来立像=秀吉が中国政略のとき、播磨の青写山から持ち帰ったものを厨子に安置している。定の作。(鎌倉時代) ③ 浅井家三代の墓=本堂の右手裏にある。 向かって、左から長政・亮政・久政の順。
曹洞宗は、お釈迦さま「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)」をご本尊としています。 また、日本において曹洞宗の教えの礎を築かれた道元禅師を法統(宗旨)の祖と仰ぎ、四代目の瑩山禅師を地統(教団)の祖と敬い、この一仏両祖の「み教え」が今日までうけつがれております
お釈迦様よりの正伝の仏法は達磨大師(だるまだいし)によって中国に伝えられ曹洞の禅風として開花、約八百年前の鎌倉時代に高祖道元禅師により我が国に伝えられその基礎が築かれ、四代目の太祖螢山禅師によって広くその教義が全国に実践教化され今日に至っています。
だるまさんに手足がない理由は、達磨大師がお手の裏山の洞窟の岩壁に向かって9年間も坐禅を組んで修行を行っていた時のこと。 長い間坐禅を組んだいてため、手足が腐ってしまったという伝説があります。...
Read more⭐️浅井家菩提寺 興福山 ...
Read more徳勝寺は、現在の滋賀県長浜市にあたる東浅井郡湖北町下山田村で創建された曹洞宗の寺院で、「医王寺」と号した。永正15年(1518年)、浅井亮政の小谷城築城に伴って、龍山株源和尚を中興として山麓の小谷城下清水谷へと移され、菩提寺となったのである。浅井氏が織田信長によって滅亡された際、この地の支配をゆだねられた豊臣秀吉が小谷城を廃城とし、天正3年(1575年)今浜(長浜)に新たな城「長浜城」を築城した。徳勝寺もその際、清水谷から長浜城下に移り、浅井亮政の諡号「徳勝寺殿」にちなんで徳勝寺に改称。慶長11年(1606年)、内藤信成が長浜城に封ぜられた際、長浜城下の田町(現朝日町)に土地を与えられて移され、寛文12年(1672年)、井伊直孝の時代に現在の地に移るなど、何度も移転を繰り返した。 現在の本堂は、享保3年(1718年)年に皇室と幕府、そして彦根藩主だった井伊直惟の助力によって建立されたものだ。当時の中御門天皇は長政に正二位大納言と白銀50枚、白緞子紋章付幕を下賜、以後皇室より年忌ごとに香料を与える慣例となった。幕府および井伊家などの保護は徳川秀忠の正室となった浅井長政の三女・お江(お江与)の影響があるといわれる。幾度も移築を繰り返しているため、現在の寺院の建物自体に浅井三代を偲ぶものは少ないが、本堂南側の妻飾が小谷城の時代のものと伝わるなど、一部に当時を思...
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