室町幕府将軍足利義輝、義昭に仕えた後、信長の家臣になった藤原藤孝が信長の命令により、勝龍寺城を当時最先端の城郭に改修する。★信長の意向により藤孝の子細川忠興が同じく16才の明智光秀の娘玉(ガラシヤ)と1578年8月勝龍寺城で結婚。★1582年6月2日父光秀の本能寺の変で丹後味土野に幽閉されるまで仲睦まじく勝龍寺城で過ごす。★1582年6月4日信長の死を知った秀吉羽柴勢4万が、6月13日1.5万の明智勢と合戦の火ぶたが切られ山崎・勝龍寺の戦いで劣勢になり、細川父子に助けを求めるも断られ多勢に無勢の明智勢は数時間で敗れ勝龍寺城に退き、深夜再起を期して北門から脱出するが、山科・上醍醐付近で落命する。★一方玉は2年余りの幽閉後、天下人となった秀吉の取りなしで1584年大阪玉造の細川屋敷に移る。★夫忠興からキリシタン大名のの話を聞きその後興味を持つようになり、救いを求めるようになり、1587年洗礼を受けガラシャという洗礼名を授かる。忠興に入信を告白したのは1995年との事。★その後1600年夏関ヶ原の戦いの前夜。。秀吉の側近だった石田三成が、家康側に忠興がついたことでガラシャを人質にしようと大阪玉造細川屋敷を包囲するが、ガラシヤはここで自害する。 1年位経ったかな。。住宅街の中にある崇禅寺。。ガラシャのお墓がある所。あまり長居は出来なかったけど近くまで来たのでやっと来ることが出来た。来れて良かった(*^-^)今度はもう少しゆっくりした時間...
Read more本丸跡 Main Bailey [所在地]長岡京市勝竜寺 本丸迹 [改修]室町時代・元電2年(1571) 改修 光2年(1571)、織田信長の命を受けた細加藤学は、それまであった勝龍寺城を、京都防衛の軍事拠点として、大規模に改修しました。 昭和63年(1988)の発掘調査で「瓦・廃若建物(殿主)・石垣」という当時の最新技術を取り入れた城であったことが判明しました。 本丸は東西約120m・南北約80mの長方形で、周囲は高さ4~5m の主堂で囲まれ、外側には堀を巡らせています。堀は幅10~15m: 深さ約3mで、本丸側の堀裾には石垣を築いていました。石垣の下には、沈み込みを防ぐ木の土台が据えられていました。石垣の築造には自然石のほか石仏や五婚なども使われていました。 瓦も大量に出士し、 新究賞:...
Read more勝龍寺城と細川家 💫西国街道と久我縄手(こがなわて)をおさえる交通の要衝にある勝龍寺城は、暦応2年(1339)に細川頼春と師氏によって築かれたとも、また明応6年(1497)に、足利義澄から土 地を与えられた細川元有によって築かれたともいわれている。 資料から、細川家の城 とはっきりわかるようになるのは戦国時代、 細川藤孝(のちの幽斎)の代になってからである。 元亀2年(1571)10月、藤孝は織田信長の朱印状によって西岡の各戸から人夫を徴発し、...
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