中津にある合元寺は、黒田官兵衛が秀吉の九州征伐の功により豊前六郡を与えられた折に、故郷の姫路から空誉上人を迎えて建立された寺だ。 寺の壁が赤いことから赤壁寺とよばれており、地元の伝承では塗り替えても赤くなるので赤くしたとか。 というのも、この寺にはそんな伝承が伝わるようなエピソードがある。
黒田官兵衛が治める前、この地は城井氏が納めていた。戦国時代後半、城井鎮房は秀吉の九州征伐に所領安堵を条件に降伏したが、九州征伐の際に要請した兵数を揃えられず、息子の朝房に兵を委ねて自身は出陣しなかったことでに秀吉の不況を買ってしまう。 朝房は少数の兵でも抜群の活躍をするも、後に伊予への転封と家宝の譲渡を命じられた。鎮房は秀吉に所領安堵を懇願するも、秀吉は頑なに拒否。鎮房はとうとう、官兵衛が肥後の国人一揆鎮圧で出陣している隙に、所領の城井ノ上城を奪取して挙兵した。 留守を任されていた黒田長政は、鎮房打倒にいきり立つも、官兵衛はしばらく様子を見るよう指示して鎮房との対決を避けるよう指示。この時、豊前各地で一斉に国人蜂起しており、豊前の国人一揆は旗頭である鎮房を説得することで解決すると官兵衛考えていたのかもしれない。 この叛乱は意固地になった秀吉の無理な要求に、同じく意固地になった鎮房が反乱したもので、話し合いで片付くと思っていたと考えていたのだろう。鎮房の勇猛さ、城井ノ上城の堅固さを考慮すれば、力攻めの無意味さも分かっていたのだろう。
しかし、1587年10月9日、長政は父の命令を無視して勝手に城井谷城攻めを始めてしまう。同じく豊前二郡を治める毛利勝信を説き伏せ、合わせて2千の兵で鎮房の籠る城井ノ上城を攻撃した長政は、ここで800の兵を失う大敗北を喫する。兵の半分を失うというのは戦国時代でもほとんどない稀な大敗だ。 困った長政は、父の官兵衛に泣きついた。これを聞いた官兵衛は、慌てて中津に引き返した。 官兵衛は直接、城井ノ上城を攻めず、周りの城を調略で落としつつ、城井ノ上城を孤立させて兵站を断ち、同時に秀吉に援軍を要請。1587年11月16日、吉川広家が1万の大軍を率いてやってくると、自軍2千の兵を加えた12000の兵で城井ノ上城の包囲を狭めて行った。この時、広家は圧倒的な兵力差があるので力攻めしても勝てると主張するも、官兵衛はあくまで直接対決を避けて降伏を促すと主張。 そして1587年12月24日、鎮房は嫡男・朝房と娘の鶴姫を人質に出し、黒田家家臣となる条件を飲んで降伏した。
官兵衛は自領の一揆を鎮圧すると、再び肥後国人一揆の鎮圧に向かうが、この時、人質となった朝房を連れていることから、肥後鎮圧の功績を立てさせて再び秀吉に本領安堵を願い出るつもりだったのだろう。 しかし、器量の狭い長政は、大敗北をさせられた鎮房に強い恨みを持っていた。 1588年4月20日、鶴姫に会わせると言って、長政は中津城に鎮房を呼び寄せた。鎮房は家臣40人ほどを引き連れて合元寺に入り、小姓の松田小吉を引き連れて中津城に向かった。そして宴が始まるや、長政は鎮房を騙し討ちする。続いて合元寺の家臣達も殺そうと兵を差し向けたが、異変に気づいた城井家臣団は一部の臣下を城内に差し向け、残りは合元寺で応戦したようだ。 松田小吉は19人に手傷を負わせたが京町筋で討死。野田新助・吉岡八太夫は広運寺まで切り抜けて自刃。残りの家臣も全て討死したという。 この家臣団の鮮血が壁に張り付き、赤く染まって取れないので赤く塗ったと言われているのだ。 黒田家譜では鎮房が200名ほどを率いて呼んでもないのにやってきたとあるが、合元寺で全滅した家臣団を祀った扇城神社には45名しか祭られていないことから、長政の蛮行を正当化するための創作だろう。 鶴姫の最後は諸説あるが、長政の行為を正当化して書かれた黒田家譜では鶴姫は助命されて尼となって天寿を全うしたとあることから、これも創作であろう。尼になって天寿を全うしたという以外の説では、広津河原で磔、もしくは火あぶりにされたとあることから、実際は長政によって殺されたのだろう。狭量な長政が、眼の仇にした男の娘を生かしておくとは思えない。 長政は殺した鎮房と45人の家臣を祭ることなく、城内乾(現・城井神社のある場所)にまとめて埋葬した。
この長政の所業を聞いた官兵衛は、愕然としたことだろう。 もはや朝房に功を立てさせても、長政の所業を知れば黒田家に恨みを抱くことは間違いない。官兵衛は自ら手に掛けるのが心苦しかったのか、一緒に肥後国人一揆に参加していた加藤清正に頼み込み、朝房の宿泊していた家に火をかけさせた。これに気づいた朝房は、反抗することなく自害して果てたという。 加藤清正は、昔から知る官兵衛からの頼みなのでことわれなかったのだろうが、朝房を哀れに思い、同地にあって廃れていた宇都宮氏を祀る宇都宮神社神社に朝房を合祀した。
さて、鎮房を騙し討ちして敗戦の溜飲を下げた長政だが、中津城に鎮房の亡霊が出るようになり、長政は亡霊に怯えるようになる。そして1591年、亡霊に耐えきれなくなった長政は、城内に城井神社を建立し、鎮房の霊を祀った。 長政はよほど怖かったのか、福岡に転封された後も、当地にあった警固神社に鎮房を祀ったと言われている。ただ、現在、警固神社には鎮房は祀られていない。 城井氏の家臣45人が扇城神社に祀られたのは、大正9年(1920年)のことで、30...
Read more豊臣秀吉と黒田官兵衛は宇都宮を騙し、黒田長政は宇都宮一族を悉く殺した。 その後、黒田の合元寺には血が滴り落ち、何度も塗り替えても血が滴り、とうとう壁を真っ赤に塗り替え、合元寺は現存されている。
徳川家康が2度調停した伊集院忠真の乱、〔庄内の乱〕。 豊臣秀吉の準家臣、伊集院忠棟斬殺から端を発した島津家と伊集院家の1年間の大乱闘〔庄内の乱〕。 島津義弘は〔庄内の乱〕が原因で、天下分け目の関ヶ原の戦いで小勢で参戦し、徳川家康軍のド真ん中に突撃!敵中突破した。
〔庄内の乱〕後、伊集院忠真が暗殺された場所周辺で、不審死、火事、祟りが後を断たず、恐れおののいた住民は真っ赤な〔伊集院忠真の供養塔〕を宮崎県小林市野尻町に建立した。 伊集院家は病人、えたひにん、百姓など弱者を救った優しい一族の様で、周辺住民から愛されていた。
今日も真っ赤な〔伊集院忠真の供養塔〕は市の文化財として現存され、大切に祀わられている。
庄内の乱」は田代義博の〔都城の乱〕という小説が面白いです。 宮崎県第2の都市の都城市(みやこのじょうし)の由来となった都之城が「庄内の乱」の舞台。血の海となった激闘地。 漫画《ドリフターズ》の島津豊久も激戦した。
九州をほぼ制覇した島津義久、その弟、島津義弘は関ヶ原で徳川家康軍を敵中突破した。その鬼島津こと島津義弘の娘が、伊集院忠真の妻の御下。 島津義弘の息子の島津忠恒が伊集院一族を皆殺しにします。 島津忠恒は徳川家康から「家」の文字を拝領され、島津家久と改名。鹿児島城を築城し、初代薩摩藩主となります。 (島津4兄弟の大物大名を3首級した島津家久とは別人)
ちなみに、西郷隆盛の美人妻は伊集院須賀夫人👯漫画《はいからさんが通る》のモデルとなった。 JR伊集院駅前には鬼島津こと島津義弘の...
Read more黒田藩を調べてたら、城井宇都宮氏との関係が浮かび上がり気になり因縁の中津城と合元寺、そして吉冨町小犬丸の宇賀貴船神社に在る醍醐経一字一石塔を訪問しました。
黒田孝高・長政の謀略で中津城で酒宴に招かれた宇都宮鎮房と小姓の2名が謀殺され、合元寺て待機していた鎮房の家臣が長政の軍勢に悉く討ち果たされ45名の家臣が殺害されました。 その時の殺害された家臣の血糊で合元寺の白壁を赤く染めて、幾度も白く塗っても赤色に滲むため一層の事、赤色に塗ってしまえと塗った事から赤壁寺と呼ばれる様になったそうです。
また、鎮房の娘である鶴姫(千代姫)と13名の侍女、一族の殆んどが殺害された悲しい事件が有った処です。
この事件を見て行く内に、宗像大宮司家の山田事件を思い出さずにはいられませんでした。
軍師官兵衛も最後に自らの策に溺れてしまった様です。多分、秀吉の指示もあったのでは❓️ 此が戦国の世と言う物な...
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