ニニキネがミヤコをミヅホミヤに遷すと、ホオテミはフタアレ (二荒) のウツのミヤ (宇都宮) からオオツシノミヤ・シノミヤへ移った。 ホオテミが11代アマカミとなると、ニニキネは譲位してここに退く。 ウガヤが12代アマカミとなると、ホオデミと后トヨタマヒメはここへ退き、世を去る。
社号はもと四宮神社・天孫四宮大明神と称され、現在も一般に四ノ宮と呼ばれている。当社は鎮座地を何度か変えており、大正時代の『近江新聞』によると、最初我が大津の南方吾妻川の堤元の四の宮町(今の伊勢屋町北方の地)と稱する所に鎮座する。『日本三代実録』には「元慶六年(877~884)十月九日戊申、授近江国正六位上海南神従五位下」とあり、「海南神」と称されていたことが知られる。また、『関東住還記』によれば、弘長二年(1262)に西大寺の叡尊が奈良から鎌倉へ行く途中逢坂峠を越え、「志賀浦 四宮馬場」で宿泊し、翌朝、そこから船で対岸の山田浦へ渡ったとあり、四宮神社の社地が湖岸近くにあった事がうかがわれる。当社はもと大津市の中心にあり、その産土神となっているが、鎮座当時は周辺にあまり人家はなく湖岸一帯は葦原沼と称された。
新首都のミツホのミヤに遷都をする事になった。琵琶湖の湖岸は初代アマカミのクニトコタチの建国の土地としての由緒もあり、2代アマカミのクニサツチのヱのミコトのミヤコもあった。この後も重要な土地としての位置づけは長く続いた。 7代アマカミを引き継ぐことになったイサナギ・イサナミも、湖岸に即位の式を挙げたオキツホのミヤ(日吉大社)や、後にミヤ(政庁)になるタガ(多賀大社)もあった。そして、クニトコタチ直系の子孫と推定されるシラヒケカミ(サルタヒコ)が国譲りをして、湖国から去って行った経緯があった。全面的に湖国のマツリ(政治)が、ニニキネ(ワケイカツチのアマキミ)に委(ゆだ)ねられた構図となった。
『ホツマツタヱ』25アヤ『 ヒコミコト チ を ゑる(得る)のアヤ』 日本...
Read more御由緒 当社は延暦年間に創祀と伝えられるが、其後の沿革は明かでない。古伝によると大同三年に平城天皇が近江に行幸の際、当社を行在地とてして禊祓された。また建久年間近江守守護職佐々木定綱が社殿造営、神田の奉納があった。また元亀年間栗太郡青地の城主青地伊予守より社領の寄進があり、豊臣秀吉が大津城築城の際その余材をもって当社を修復された記録がある。 社号はもと四宮神社、天孫四宮大明神と称され、現在も一般に四ノ宮と呼ばれている、これは彦火火出見尊外三柱と四神を祀る為とか種々説がある。当社はもと大津市の中心にあり、その産土神となっているが、鎮座地は周辺にあまり人家はなく湖岸一帯は葦原沼と称され、四宮五座として本社の境域を劃していたが、天正十三年坂本城を此地に移して大津城と改称するに至り、当社はその地主神である為、市街の発展と共に全域下の鎮護神、全町民の産土神となって神威を発揚し、これが十月十日(旧九月十日)四ノ宮祭となり、記録によると曳山祭は慶長年中に始まり、街の発展人口増加に従ってその数を増し、元禄年中に大体現町名が整って、京都の祗園会を彷彿させる神輿二基鉾山十四基による優美な巡行が斎行される様になった。尚この祭礼には代官所並総年寄町年寄等の役人も協力奔走し、又大溝藩主分部候よりも特に鎗二本を出して渡御警護に当る等上下崇敬の厚かったことがわかる。又当社は日吉山王の信仰と深い関わりがあり、山王祭には当社と日吉神社の間に大榊の神事があり、即ち四月三日の夜当社より日吉神社に多数が赴き、日吉の大榊を持ち帰り、これを「しんの御榊」として拝殿に祀っておき、山王祭の四月十四日にこの大榊を引いて再び日吉神社に返す神事で、この大榊が帰って初めて山王七基の神輿が唐崎に神幸するのである。 この大榊の神事は、日吉の祭も白鳳年中より延暦九年までは神輿は無く榊を以て渡御していた名残とする説や、当社の氏子が山王信仰の顕現として夜密かに日吉神を榊に遷して盗み帰り崇拝したもの等種々伝えられるが、これを儀式化した神事である。...
Read more国指定重要無形民族文化財 大津祭りの神社。 安産、交通安全、家内安全、学業成就、厄除 絵馬?がちょっと可愛かった。からくり人形?も飾ってある。
奈良時代(西暦782年 延暦年間)に創建され、平安時代(西暦806年 大同3年)10月には近江に行幸された平城天皇が、当社を仮の御所として禊祓いをされた。佐々木定綱により増築。近江の守護。その後大津城が築城された折には、城下の守護神として町衆より崇敬された。 近江の国には大変神徳の厚い社がありそれを昔の人々は一宮~四宮と称た。一宮が建部大社、二宮が日吉大社、三宮が多賀大社そして四宮が天孫神社 本殿の裏側にいくと鬼瓦が見れる。 神楽もあり、御輿も飾ってある。
●大津祭りについて 令和4年は10/8宵宮夕刻~本祭9:00~17:00 10/2山建て予定)かつては四宮神社だったので四宮祭と呼ばれていた。日吉山王祭り、長浜曳山祭りと並んで湖国三大祭り。令和3年は引き回しは無かったが、厄除け粽(ちまき)や手拭いの授与、場所により安産のお守りがあった。(山により柄が違う)からくり人形が飾られてあり、本番は動くとのこと。...
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