宗像神社(むなかたじんじ)。奈良県桜井市外山(とび)。
式内社(名神大)三座、旧村社。
主祭神:多紀理毘売命、市寸嶋比売命、田寸津比売命。 『延喜式神名帳』に「三座」と記されており、いわゆる宗像三女神を祀る。
資料によると、 鳥見山(とみやま)の山麓に鎮座する。
胸形徳善の娘である尼子娘が、天武天皇の後宮に入って高市皇子の母となった縁によって、同皇子の外戚の氏神として祀られたものであろうと推測しているが(国学者・伴信友)、それ以前に宗像氏が本貫地から奉斎する宗像三女神を分霊・分祀したものともされている。
その後、高市皇子の後裔である高階氏が氏の神として崇め、元慶4年(880年)に官社に列し(『日本三代実録』)、翌5年に本社である筑前宗像神社に准じて神主職を置き、高階氏をこれに補任するよう定められ(同年10月16日の「太政官符」(『類聚三代格』所収))、寛平5年には修理料として近在の徭丁8人を充てる旨の「太政官符」が下された(上述寛平5年「太政官符」)。延喜の制で3座ともに名神大社に列し、月次・新嘗の両祭にも与っていた。
祭祀を司ってきた高市皇子の後裔の高階義岑は、南北朝の争いの際吉野朝に与したのであるが、宗像神社は兵火にかかり、神宝も失われたと云う。 以降、神社は荒廃するままであった。
南北朝時代以降「春日社」と称されてきた。 また別に、近世以降は「中島社・中島さん」とも呼ばれている。
安政年間、国学者鈴木重胤が再興に努力し、筑前宗像大社より祭神を再度勧請したと言う。
明治に入ってまず無格社に指定され、同8年に「宗像神社」に復称、同21年(1888年)には宗像神を主祭神とする体裁に改めて、同40年(1907年)に村社に昇格した。
天武天皇の出自や近江王朝からの皇位の簒奪に九州の豪族がからんでいた名残を示す神社であろうか。 神武東征、応神東征の経路には天武天皇軍の動きが反映していると言う。 おそらく大化の改新や壬申の乱などで古い記録は失われてしまい、天武持統の時代に再構成されたのが記紀であろう。...
Read more宗像社御祭神 宗像三神 (多紀理比売命、市寸嶋比売命、田寸津比売命) 式内社(名神大社)に列せられ、古くは非常に有力な神社だと思われます。 筑前国宗像郡に鎮座するのは同じ神の本社にあたります。 本社宗像神社とは比較にならないくらい小さな末社ですが、昔は親戚関係にあり、名神大社に列せられていたようです。 海神である宗像の女神がここにいることは不思議ではあるけれど、この神社を祀る一族の権威付けにもなっていたと思われます。
中世、社殿が焼失し衰退し興福寺の支配下にはいり、春日神社と春日若宮を祀っていた時期もあります。現在も混在...
Read more珍しく道路よりますと、下がった位置にあります でも参道は古くからの道で慈恩寺の地元の方々の集落へと繋がっていて、毎日 毎日地元の方が掃除に来られている様子でした!
掃き清められた境内は静かで神聖
拝殿も新しく閉じられていましたが手入れが行き届き落ち着いてお参りさせて頂けました^^
忙しい為、身近にいらっしゃる 宗像三女神さまにどうしてもお会いしたくて参拝
日輪がさし『罪穢れは生きていたらどうしても付くものだから、私達がいるのだよ 』...
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