「犬伏の別れ」 慶長5年、関ヶ原合戦を目前とした真田父子がお家存続のため徳川方、豊臣方とに分かれる決断を話し合ったのがこのお堂です。
史跡、米山古墳のふもとにあり道路から一段高くなっています。 池波正太郎氏の「真田太平記」NHK大河「真田丸」司馬遼太郎氏の「関ヶ原」など多くの小説やTV映画などで分かれの名場面として描かれて来まし...
Read more薬師如来を祀る御社 というより「犬伏の別れの地」の方が有名である。
詳細は歴史小説の傑作で名高い池波正太郎の「真田太平記」に譲るが、関ヶ原合戦の前哨戦である上杉討伐に参陣する真田昌幸がこの地犬伏まで到着した際、石田三成の密書が届き、既に徳川家康の陣(小山)に到着していた長男信幸を呼んで、今後の行く末を協議した場所とされる。 歴史検証はいろいろあるが、昌幸の妻が三成の妻の従姉妹、次男の信繁(幸村)の妻は西軍副将格の大谷吉継が息女、一方信幸の妻は家康の重臣本多忠勝が息女の血族を背景として、徳川軍の上田攻めの際、上杉の人質だった信繁(幸村)を上田に戻したことや、その際上杉の援軍を得て滅亡を逃れたことが、昌幸を西軍参陣に決意させた動機であったように考察する。「真田太平記」では、この協議の大分前に信幸が徳川の忍びが上杉や西軍計画を察知していて「夢にも西軍に就きませぬように」と昌幸に進言する描写がある。信幸は徳川の大きさを知り、徳川軍に参陣する。 手前は秀吉や昌幸に好意的である。これは手前の先祖が川越城の合戦で、討ち死にしており、その仇を取ってくれたからかもしれない。私情が絡むと考察に影響を及ぼすので上記の考察は史実と乖離があるかもしれない。
余談になるが、親が日本放送協会の受信料を払っているころ、「真田太平記」と「炎(ほむら)立つ」は大河ドラマと別枠でドラマ化されていた。 そのなかで、関ヶ原の合戦で、脇坂安治が裏切っ際の大谷吉継の描写や、平塚為広の描写を割愛したところ、大阪夏の陣で信繁(幸村)が「又兵衛殿(後藤基次)は何故死を急ぐ」という台詞を入れたところは、後で小説を読み返したときに、かなりの違和感を覚えたこ...
Read more犬伏の別れ
慶長5年(1600年)7月、会津の上杉景勝・直江兼続らを討つべく、大坂を出陣した徳川家康は、ひとまず江戸城に入っていた。一方、真田昌幸・信繁(幸村)らは家康の号令の下で、徳川秀忠率いる軍勢との合流にむけて沼田を出立し、下野国・宇都宮城へ向かっていた。
こうした中で7月17日、ついに石田三成が大坂で挙兵する。何も知らない真田父子は、7月21日に宇都宮城の南に位置する下野国・犬伏(栃木県佐野市)に到着して陣を構えた。 まさにその時、三成が挙兵した17日付けの三成書状が届き、そこには豊臣秀頼に忠誠を尽くすために真田も自分(=三成)に味方してほしい、といった旨の事が書かれていた。また同じ頃、大谷吉継からも書状が届き、そこには昌幸・信繁(幸村)らの妻子を無事に保護した旨が記されていたらしい。
こうした展開から、真田父子は三成に味方するかどうかの議論をすることになる。
史料によれば、このとき昌幸は信之と信繁(幸村)を呼び出して、人払いをして密談をはじめたという。そして、最終的に昌幸と信繁(幸村)が三成に与する決断をしたが、徳川と結びつきのある信之はこれに難色を示した。密談の結果、昌幸らは真田家を分けることを選び、昌幸・信繁(幸村)は石田方に味方して上田へ向かい、信之は徳川方に残って宇都宮に進むことになったという。
この真田父子の密談が「犬伏の別れ」であるが、真田父子がどのような議論をしたのか等...
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