群馬県指定史跡白井城跡 白井城は吾妻川と利根川が合流し街道が交差する交通の要衝に築かれました。 城跡は吾妻川に面した河岸段丘を利用しており、台地南端に本丸、北へ二ノ丸、三ノ丸を並べています。 本丸南には南曲輪と新曲輪があるが現在は市街地化しています。 二ノ丸、三ノ丸は畑となっていますが空堀があり、本丸の東には深い横堀が巡り虎口は桝形で石垣が残っており見どころです。 【歴史】 戦国時代に関東管領である山内上杉家の家宰職として活躍した白井長尾氏の居城でしたが、越後上杉氏、後北条氏、武田氏の間で幾度も戦乱の舞台となりました。 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐後に関東移封になった徳川家康によって統治が進められます。 まず本多康重が2万石で入封し、その後関ヶ原の戦い後に松平康長が入り、慶長7年(1602年)井伊直孝が1万石で藩主になり、元和2年(1616年)直孝が本家を継ぐため彦根に転出すると西尾忠永が2万石で入り、元和4年(1618年)本多康重の次男の本多紀貞が1万石で取り立てられた。元和9年(1623年)紀貞は嗣子無くして死去し白井藩は廃藩、白井城は廃城となり破却されました。 【アクセス】 本丸まで車で入れますが、横堀を見学するのであれば白井宿側から歩いて散策するのをお勧めします。 看板が出ているので迷いません。
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Read moreわが上州グンマーや武蔵・野州等を舞台に展開した中世関東の内乱「享徳の乱」初期に活躍した長尾景仲(昌賢)をはじめ、関東管領上杉家家宰職を複数輩出した名門・白井長尾氏の本拠地。「長享の乱」では、越後守護家嫡男・上杉定昌軍の駐屯地となった。その後廃城期を経て、近世初期には白井藩が置かれた。吾妻川と利根川が合流する半島の基部西岸高台にあって、沼田西街道や三国脇街道等の交通分岐点を扼する崖端城。本丸堀・二の丸堀や土塁・武者走り等、遺構が良く遺されている。特に城域東端の大規模な空堀や、本丸南端からのささ廓の眺めは見応えがある。近くの白井宿には「日本最高の甲冑師」明珍信家の鍛冶場趾がある。山崎一「群馬県古城塁趾の研究」では、白井城の南東、半島の先端部にあったとされる「仁居谷城」趾が紹介されている。「にいや」は「新屋」であり、築城初期の白井城と別城一郭を成す施設だったらしい。所在地は尖野(とがの)。山崎御大作成の地図からすると今の創価学会会館〜崖端あたりだと思うのだが、...
Read moreもともと長尾氏は、相模国長尾郷を本領とする桓武平氏でした。 しかし源頼朝が挙兵したときは平家方につき、北条氏と三浦氏が争ったときは三浦氏に加担した為、一時は没落しました。 その後、南北朝時代となり、上杉氏が越後および上野の守護となり、そのもとで長尾景忠が守護代に任じられてから、両国で勢力を伸ばすこととなりました。 まず景忠の弟である景恒が越後守護代となり越後長尾氏となり、景忠の子孫が上野守護代を継いで、関東長尾氏となりました。 さらに関東長尾氏は、この白井の白井長尾氏と総社の総社長尾氏に分かれ、それぞれが実力を蓄えていくことになります。 その後、長尾氏は上杉氏の家督争いに巻き込まれ、自分たちも内部抗争を繰り返すことになり、ついには大国に飲み込まれていくこ...
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