長篠城は三河国(愛知県東部)と遠江国(静岡県西部)との国境に近い場所に所在し、東三河地域の平野部と山間部との境目であり、交通の要所でもありました。豊川と宇連川、崖地など自然地形は城の防備に活かされました。
永禄3年(1560)、今川義元の死後、今川氏・武田氏・徳川氏がこの地の争奪戦を繰り広げました。長篠城はこの地域を支配するうえで大切な場所であったことから、天正3年(1575)5月に長篠城を巡って「長篠・設楽原の戦い」が起こっています。この戦いは父・信玄の跡を継ぐことになった武田勝頼が15000の兵を率いて長篠城を取込んだことによって始まりました。
当初、武田の大軍に対して、長篠城の守備隊は500人の寡兵であったが、200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、また周囲の地形のおかげで武田軍の猛攻に持ちこたえていました。しかし兵糧蔵が焼失し、落城必至の状況に追い詰められた。そんな中、鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が密使として夜間に放たれ、約65km離れた岡崎城の家康へ援軍を要請させることに成功した。 岡崎城には既に織田信長の率いる援軍30,000人が、徳川家康の手勢8,000人とともに長篠へ出撃する態勢であった。翌日にも長篠城救援に出陣することを知らされた鳥居は、この朗報を一刻も早く長篠城に伝えようと引き返したが、長篠城の目前で武田軍に捕らえられてしまいました。 最初から死を覚悟の鳥居は、武田軍の厳しい尋問に臆すことはなかった。鳥居の豪胆に感心した武田勝頼は、鳥居に向かって「今からお前を城の前まで連れて行くから、城に向かって『援軍は来ない。あきらめて早く城を明け渡せ』と叫べ。そうすれば、命を助け、所領も望みのままに与えてやろう」と取引を持ちかけた。鳥居は表向きこれを承諾したが、実際に城の前へ引き出された鳥居は、「あと二、三日で、数万の援軍が到着する。それまで持ちこたえよ」と、勝頼の命令とは全く逆のことを大声で叫んだ。これを聞いた勝頼は激怒し、その場で鳥居を磔にして、槍で突き殺した。しかし、この鳥居の決死の報告のおかげで、援軍が近いことを知った貞昌と長篠城の城兵たちは、鳥居の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの二日間、見事に城を守り通すことができたといいます。
信長軍30,000と家康軍8,000は長篠城手前の小川に沿って丘陵地が南北に連なる設楽原に着陣。 信長はこの地形を利用し、30,000の軍勢を敵から見えないよう、途切れ途切れに布陣させ、小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努め、さらに馬防柵を設け、武田の騎馬隊に備えました。
一方、信長到着の報を受けた武田陣営では直ちに軍議が開かれた。信玄時代からの重鎮たちは信長自らの出陣を知って撤退を進言したといわれているが、勝頼は決戦を行うことを決定し、長篠城の牽制に3,000ほどを置き、残り12,000を設楽原に向けました。これに対し、信玄以来の古くからの重臣たちは敗戦を予感し、死を覚悟して一同集まり水盃を飲んで決別したという。
武田軍が織田・徳川軍を攻撃して始まった設楽原の戦いは昼過ぎまで続いたが、織田・徳川軍から追撃された武田軍は10,000名以上の犠牲を出した。織田・徳川軍の勝利で合戦は終結した。
勝頼はわずか数百人の旗本に守られながら信濃の高遠城に後退した後に甲州へ帰国しました。
長篠における勝利、そして越前一向一揆平定による石山本願寺との和睦で反信長勢力を屈服させることに成功した信長は、「天下人」として台頭し、徳川家康は三河の実権を完全に握り、遠江の重要拠点である諏訪原城・二俣城を攻略していき、高天神城への締め付けを強化しました。 武田氏は長篠の敗退を契機に外交方針の再建をはかり、相模後北条氏の甲相同盟に加え、越後上杉氏との関係強化や佐竹氏との同盟(甲佐同盟)、さらに関東諸族らと外交関係を結んだが、天正10年(1582)3月、織田・徳川連合軍による武田領国への本格的侵攻により、武田氏は滅亡した。
天正4年(1576)長...
Read more天正3年(1575年)の織田・徳川連合軍と武田軍との戦いである長篠の合戦の舞台となったお城で、日本100名城の一つに数えられています。 長篠城は永正5年(1508年)に今川氏に属する菅沼氏によって築かれました。その後菅沼氏は徳川氏に属しましたが、武田信玄に攻められ武田氏の軍門に降りました。信玄死去後、再び徳川氏に属しましたが城主は奥平氏に変わりました。 長篠の合戦は信玄の後継者である武田勝頼が15,000騎の甲信軍を率いて奥平氏が篭る長篠城を囲んだことが発端となっています。
長篠城は寒狭川と大野川という二つの河川が合流する地点に築城されている梯郭式の平城です。三角形の形をしていて河に面した二辺は深い渓谷によって対岸と隔絶されています。残りの一辺は土塁と堀によって構築されています。 中世の山間地の城ですので天守閣は無く殆どが土塁作りです。
現在残っている遺構は本丸とその周辺の切掘りと土塁が主なもので、他の曲輪は市街地になっています。
一般的に長篠城は二方向を断崖に囲まれた堅城であると言われますが、正直それほど大きくは無く、確かに渓谷に面した二方向の守りは硬いですが残りの一方は大きく開いており、それ程の堅城という印象は受けませんでした。さらにすぐそばに小高い丘があってここから城内が見通せることが出来ます。武田勝頼もここに陣を構えました。僕も登ってみましたが城内を見下ろすことが出来ました。 ですので500騎の守備兵で15,000騎の大軍から守りきったというのは素晴らしい快挙であったと思います。
長篠城には長篠の合戦にまつわるエピソードとして、鉄砲の三段撃ちと騎馬隊との激突、酒井忠次による鳶ヶ巣山砦の攻略、鳥居強右衛門による懸命の叫びといった逸話がかず多くあります。
長篠城を訪れる際は、そいうった逸話の地も合わせて訪れる事をお勧めします。 特に武田氏の陣地跡も回ると、戦国時代の城攻めがどのように行われたかがよくわかります。
長篠城は新城市にありますが、大変きれいに遺構が保存されており、要所要所に案内看板が立てられています。 そういった努力によって訪れる人が大変気持ちよく見学で...
Read moreここを訪れた理由は、『水曜どうでしょう』試験に出る日本史ロケ地で前回試験卒業できなかった安田さんがリベンジで参加し、ここ長篠城址で授業寸劇の主役『鳥居強右衛門』を演じたところに行きたかったため。 大泉、鈴井、安田が寸劇を繰り広げた場所は土塁の上にあり、ほぼ当時のままの姿がありすぐに見つけることが出来ました。
あれから20年ほど経過して、『鳥居強右衛門』磔の図看板は真新しくなって赤く、より漫画チックになったような気がします。
長篠城址は自然の要害で宇連川、豊川の合流点の三角形の断崖の上にあります。 豊川に掛かる『牛渕橋』からその全容を眺めることが出来ます。
信州と三河、遠江をつなぐ要衝として重要な役割を担った城で今川、武田、徳川がせめぎ合った場所。
1573年、武田信玄死去後に長篠城は徳川の手に。 1575年5月武田勝頼は父も欲しかった長篠城を堕とすため15,000名の兵を率いて取り囲んだが、当時の徳川方長篠城城主、二十歳の奥平信昌勢は、わずか500名で善戦し有名な『長篠の合戦』『設楽原の合戦』につなげた難攻の『長篠城』があった場所。 『水曜どうでしょう』試験に出る日本史で再認識し是非とも訪れてみたかった念願が叶いました。
戦国時代の典型的な防御を固めた城があったとのことですが、思ったよりも面積が小さく、よくぞわずか500名で戦ったなと感心しました。
元々徳川に仕えていた奥平家は武田信玄死後に奥平信昌は徳川方に帰参すると決断、勝頼は奥平信昌の家族人質3名を処刑する。 その恨みと意地が若い武将を奮い立たせたのでしょう。
そして、織田、徳川援軍に重要な役目を果たした『鳥居強右衛門』忠烈の活躍が奥平勢を救うことになる。 一人の忠義伝説や戦国時代に苦悩の中での戦い抜いた武将の生き様が伝わる感慨深い場所である。
敷地内に元あった鳥居神社近くに、とても大きな木があります。 見上げながら、当時を見たんだろうか?と思えるような大木です。
鳥居強右衛門磔の場は、豊川挟んで対岸にあります。
興味のある方は、いずれも...
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