東京十社がひとつ。アジサイで有名。また、神社境内に猫が多い。地味に蚊が居る。
以下,史跡などの観察情報を記す。
1【表参道社号碑】
昭和五十年銘。大理石製か。石柱型。公凮石川 謹書。宮司 清水司。
2【玉垣】
大正三年銘。親柱のみ現存。欄干はない。
階段を登りきったところにある。
親柱側面に篆体字で「皇恩」「神徳」と刻む。また別面には、「本郷區駒込西片町」「青木宇右衛門」「社司 春日……」と刻む。社司の名前は確認中。
3【八幡神社】
案内板はあるが、読みにくい。
白山神社が当地に遷宮されるよりも前に存在していた神社。源義家創建と伝わる。
鳥居は明神型。昭和三十一年銘。
手水石は裏面に貞享二年銘とある。江戸中期始め頃のもので古い。縁には無数の盃状穴。表面には「白山」と「御賽前」の刻字、また多数の人名を刻む。
4【旗桜記碑石】
明治二十九年 健之。井龜泉 彫刻。
日清戦争戦勝記念(「皇國萬歳祝勝紀念」)に建てられた様である。また,碑石と併せて鉄柵が奉納された旨を刻む。
井龜泉は,江戸三大石匠と称された石材業界の泰斗。本名酒井八右衛門。年代的に,二代目井龜泉の作と思われる。また、当社の裏鳥居を奉納している。
碑文の概略は、八幡太郎義家が清原武衡、家衡討伐のために山形に行く際、当地の人々に盗賊退治をお願いされた。そこで戦勝祈願のため、京都石清水八幡宮に向かってお祈りをし、当地の桜に旗をかけた後、部下に命じて、これを退治させた。晴れて清原武衡と家衡討伐し、帰参した折に、当地に八幡宮を勘請した云々。
5【境内社?】
立入禁止の様である。何を祭っているのかは現地観察からは分からない。
6【皇紀二千六百年記念の幟立石】
昭和十五年銘(皇紀二千六百年銘)。小石川區指ヶ谷町會、白山三業組合 奉納。
白山三業組合は,明治から戦前まで,神社近くに存在した花街の組合。
観察する限り,穴周りに、日焼痕があるので現在も使われているのかな、と。
7【石燈籠二基】
貞享三年銘。
燈籠裏面にそれぞれ「松平氏女 小山 粛具」「藤原氏女 河内 謹具」と刻む。
松平氏女(むすめ)とあることから,奉納者は,町人などではなく,武家の女性と分かる。しかも,松平や藤原を名乗れる地位にあった。
小山や河内の意味は分からない。
一瞬、官職かと思った。が,女が官職を名乗るわけがないし,「小山守」など存在しない。
また,「名前かな」と思いもしたが,さすがに女性の名前っぽくない。
結局,奉納者を旗本の奥さんと仮定し,「旦那さんの知行地を刻んだのかな」と予想したところで考えるのを止めた。
観察に戻って。燈籠の火袋の中に熔けた蝋が固まっているので、現在も燈籠として使われている様である。現役300年。
8【狛犬】
安永九年銘。右手の狛犬の裏面に「願主當所指二 石屋五郎兵衛 同六代目同名 弘化二己九月吉日 再興」と刻む。
どうやら江戸中期末に建てられた狛犬が、何らかの理由で壊れ、江戸後期の弘化年間に再建された様である。また、少なくとも石屋五郎兵衛は六代目まで続いていた様だ。調べると、深川の有名な石工だったらしい。
観察に戻って。狛犬の目が金色に塗られており、ウルトラマンのようになっている。また、吽形の葉がエメラルドに染められていた様である。
9【天水桶】
安政九年銘。願主 五郎兵衛。
正面には「耳(に)組」と浮き彫りにされている。江戸時代の火消しによる奉納と思われる。
10【神額】
田代其次 謹書。右から「白山神社」とある。
田代其次は、戦前に活躍した書家。従って、神額の年代は戦前奉納と思われる。
11【玉垣建造之碑】
自然石型。昭和四十三年銘。宮司 山崎高義。
絵馬の掛け所の裏にあり。明治維新百周年記念に玉垣を建てたらしい。
裏面連名に「浦部武夫」「青木宇右衛門」「清水司」「清水純子」の名前を確認。
また、正面に「西片白山講 青木宇右衛門」とある。どうやら、この青木八右衛門、講集団の講元であったらしい。
12【敷石奉納碑】
平成十三年銘。宮司 清水雅裕。
御神籤の掛け所の向かいにあり。
奉納者として清水純子などの名前を刻む。
13【手水石】
明治三十年銘。吉野長吉 奉納。正面に六角形に桜の社紋。
立派な手水舎の中にある。黒ボクから青銅の龍が上半身を覗かせており、その口から水が流れている。夏の水は生ぬるい。
14【注連柱】
明治四十三年銘。京須律治、青木宇右衛門 奉納。
正面に六角形に桜の社紋。側面に穴が空いている。かつては欄干を嵌め込み、玉垣と繋げていたのだろう。
15【階段右手 手摺親柱】
大正七年銘。「金壱百圓 道路修繕費」と刻む。
16【階段左手 手摺親柱】
大正八年銘。
「玉垣臺弐」と刻む。青木?松、京須律治 奉納。
17【石段奉納碑】
目測15㎝。寛政二年銘。左官重三郎、石屋五郎兵衛、萬屋利右衛門 奉納。石段上の右手摺下にある。
石屋五郎兵衛は、当社の天水桶と狛犬にも名前が刻まれている。代々、熱心な信者だったのだろう。
18【裏鳥居】
明神型。明治二十二年銘。酒井八右衛門 奉納。中根半嶺 謹書。
中根半嶺は,幕末から明治に活躍した書家。
柱上部に刻文あり。以下、転写する。
ー原文ー
右御鳥居五世祖考加賀守正盛所奉建也今茲蒙
台命加琢磨奉再建之
延享三年丙寅九月十七日
読み下すと、「右の御鳥居は五世祖考加賀守正盛の建て奉る所也。今茲に台命を蒙り、琢磨を加え、之を再建奉る。延享三年丙寅九月十七日」くらいのもの。
意訳すると、「この鳥居は五代前のご先祖様である加賀守正盛が建てさせたものです。いまここに、将軍様のご命令を受けまして、これを研磨させ、再建致しました。延享三年丙寅九月十七日」という感じか。
また、柱下部にも刻文あり。以下、転写する。
ー原文ー
此華表自元和年間在于江戸城内紅葉
山慶應中徳川家移之深川伊勢崎町之
邸後又轉于他予有故購求焉以獻本社
而存永遠者也 井亀泉謹誌
「此の華表、元和年間より江戸城内紅葉山にあり。慶應中、徳川家、之を深川伊勢崎町の邸に移す。後又、他に轉る。予、故有りて、購求す。本社に獻ずるをもって、永遠に存するものなり。井亀泉謹誌。」
「この鳥居は元和年間より江戸城内紅葉山にございましたが、慶応年間に徳川家が深川伊勢崎町の邸宅にこれを移されました。その後また、他に移されましたところ、訳あって私がこれを購入致しました。これを白山神社に奉納することをもって、永遠のものと致します。井亀泉 謹誌」
情報を纏めると、
この鳥居は、堀田加賀守正盛が作らせたものであったが、その後の延享三年に、堀田の子孫が将軍の命令を受けて、補修を加えた。
元和年間から江戸城紅葉山にあったが、幕末の慶應年間中に旧深川伊勢崎町に移された。
江戸城無血開城後、十五代将軍徳川慶喜の正室、一条美賀子が当地の水戸藩倉屋敷に一時的に居を移したらしいので、そのときに併せて……ということだろう。
その後、所在を転々としていた、あるいは、転々としようとしていたところ、井亀泉こと酒井八右衛門が購入。
書家の中根半嶺に揮毫を頼み、これを自ら鳥居の柱に彫刻して、明治二十二年に白山神社に奉納した。
という流れになるかと思う。
19【裏参道社号碑】
大正七年銘。久保寅吉 奉納。篠田元 謹書。井亀泉 彫刻。目測3m半。
たもとに物置小屋があり、その裏に国旗掲揚塔と思われる石造物がある。