諏訪山吉祥寺の由緒
駒込吉祥寺は長禄ニ年(1458年・室町時代)、太田道灌が江戸城を築城する時、井戸の中より「吉祥」(きちじょう)の文字を刻した金印が発見され、これを瑞祥として一寺を建立し、日頃尊崇していた青巌周陽禅師を請して御開山とし山号を「諏訪山」と称したのであります。 歴代の住職に禅界の巨匠、大徳がおられました。第四世の看栄ホウ閲禅師は正親町天皇より特に天海禅師の勅号を賜り、徳川家康は当時の住職に帰依して興聖菩薩作の自身の守本尊たる毘沙門天尊像を寄進し、更に紋紗の紫衣(しえ)を代々着用することを仰付けられました。この毘沙門天尊像は寺宝として保存されて居ります。 寺内に設けられた「栴檀林」(学校)は当山五世用山元照禅師の時創立され、宗門の禅学を修得する道場として天下の禅僧は雲集し、湯島の昌平黌と並び江戸期の学林として、常時千人を下らぬ学僧を収容し、その偉容を誇ったのであります。此の栴檀林は現在の駒沢大学の前身であります。 明暦三年一月所謂「明暦の大火」によって焼失し、神田駿河台から現在の駒込の地に移建されました。即ち江戸城に在ったのが、約百三十年間。 駿河台に在ったのが約七十年間。現在の駒込に移ってから約三百五十年になります。現在の水道橋は、吉祥寺の表門橋で元禄の頃までは「吉祥寺橋」と称しました。明暦の大火後、当山十三世離北良重禅師の時、現在の地に七堂伽藍を建立し、栴檀林の学寮も二十七棟を数えその規模、学僧の数、他にその比を見ず、府内第一の巨刹として自他共に許したのであります。 然しながら昭和二十年五月二十五日戦災に遭い大堂宇は山門と経蔵を残し全部灰爐に帰し、昭和二十八年奈良薬師寺の東塔を模した仏殿と書院を再建し、更に又昭和三十九年十一月七日壇信徒の絶大なる尽力により鉄筋の本堂を建立し、従来の仏殿は本堂の後に移し階上を御開山堂とし階下を座禅堂としました。 又明治天皇陛下の内侍でありました山茶花の局が住んでおられました書院を移築して新方丈と致しました。尚戦災のため什物、寺宝も焼かれましたが、前記の毘沙門像始め徳川五代将軍綱吉公より下附せられた当時日本一と言われる江戸城の登城太鼓があり、又徳川家康城中見廻りの籠等が残っで居ります下さい。当時の墓地は都内に其の例を見ぬ広大にして諸大名を始め有名知識人が多く、昨今の知名人としては、鳥居耀蔵、榎本武揚、川上眉山、二宮尊徳の墓があります。 モッカ社会教化事業としては、坐禅会・書道会などを実施しております。山門入ると左側に当寺の鎮守たる諏訪明神、茗荷稲荷明神があり、また、お七・吉三の供養塔も建立されております。ぬれ仏のお釈迦様は江戸期無縁仏の為に多くの人々によって建立されてものです。 尚、現在の中央線武蔵野市吉祥寺は、往年当寺の開墾地であり、吉祥寺の別墅地(べっしょち・領地)であったため吉祥寺の名称が残ったのであります。 現在吉祥寺住職岩本一典は、第四十五世であります。 ...
Read more菩提寺です。 読み方は 【きちじょうじ】Kichijohーji であり、Kisshoーji キッショウジではない。 かなり以前に訂正要請したが、未だそのまま。訂正提案など建前でしかないと知る。 そんなもんだわ Google map(笑)。
以下、駒込吉祥寺については【諏訪山 吉祥寺の由緒】からの抜き書きです。紀元表記は西暦
室町時代 1458年 太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中より【吉祥・きちじょう】と刻された金印が発見され、これを瑞祥として城内に一寺を建立、山号を【諏訪山】とした。
歴代住職に禅界の巨匠・大徳がおり、第4世は天海禅師。徳川家康は当時の住職に帰依、紋紗の紫衣を代々着用することを仰せつけた。更に、寄進した自身の主本尊の毘沙門天像は寺宝として保存されている。
扁額の【栴檀林(せんだんりん)】 即ち「栴檀古道場」は寺内の学林であり、江戸期、天下の禅僧が雲集し常時千人を下らぬ学僧を収容、湯島の昌平黌と並び、その偉容を誇った。この栴檀林は、現在の駒沢大学の前身である。
【ロケーションの推移 ...
Read more〔諏訪山 吉祥寺(駒込)/Suwasan Kichijyouji Temple...
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