今でこそ国府は大国魂社の境内(一部)に存在する遺跡に過ぎないが、初めは逆だった。 大国魂社の起源となる祭祀施設は国府成立以前にあったらしいが、六所明神として確立したのは国府より後のこと。 律令政府の国司のミッションは、こんにちの行政の定義からするとおかしなことだが、域内の祭祀も含まれていた。古語の「マツリゴト」に、古代人のその辺りの概念が鏡のように反映されている。 国衙には、この遺跡が相当するらしい正庁を核にして各局・部・課に相当する部門の建物、たぶん正倉と呼ばれたはずの米蔵(租税収納庫)、通信基地としての厩(車庫)、そして神を祀る施設が欠かせなかった。 武蔵国の場合、主だった六所の神々を、先に触れた祭祀施設を拡充して(元の神様を追い出さずに)祀った。国司の便宜のためだ。 確かに、武蔵国は広大だから一回りするのも大変なことだっただろう。ならば一ヶ所にまとめて参詣を欠かさないようにするというのは、理にかなっているようだ。 しかし序列決定には頭を悩ませただろうな(そのマトリクスについては、マップの大国魂神社本殿の項で管見を記した)。中央から派遣された国司と、介(一人は中央政府派遣、一人は地ばえ)辺りが鳩首しているのが目に浮かぶようだ。中央からの二人が(当時なりの、ですよ)定量評価的に決めようとするのに、地元選出の介が特殊個別論を言い立てて異をとなえる。その会議はまさか正庁ではなかっただろうが、いずれこの遺跡のごく近くで持たれたに違いない。スッタモンダの挙句、合意文書が作成される。公正を期して執筆は掾に任せようか。 掾は心中で「ヤレヤレおかみも大変なことだが、私を巻き込まないで下さいよ」なんて思いながら文書化して 「はいできました、どーですこれで」 国司「あいや結構。これにて参ろう」 地元介「どーれ拝見… ん、やや! これはならぬ。なりませぬぞ、つかさ殿❕」 国司「介さんや、どこがいかんかの。ワシはよ酒にしたいわ。なーもひとりの介さん、呑みの支度でけとる?」 中央介「ほどなく燗もつきましょうほどに、ちょっと延ばしても今日決められませ」 国司「そがいなもんかいのぉ。で介さん、何が気ぃに合いまへんのや」 地元介「さればでござりまする、つかさ殿。ここ、ここでござりまする。なぜこの行為に与という字をお使いになられますか。これじゃ各社が下と見えまする!」 掾心中で「お、この介さん素養なしでもないんだ。ははぁ渡来人に習ったのだな。田舎者と侮ってはいかんな」 国司「おや介さん、何かと思えば取り越し苦労な(おやコイツ、案外抜け目ないな)。それはやな、オイもひとりの介さん、燗つけんの、ちょい待ち草や」 中央介「承りました。さりながら国司様、イヤですよ奈良時代にない地口なぞお出しになられましては」 国司「おーそーじゃった。まま堅いこと言わんと、燗は後回しや。えーな。 さて介さん、この与の字やがな、こりゃ上下ではおまへんのや。「ともに」の与ぉや。同格や。わかるな。そこも高麗郡留学経験があると聞くぞ、大したもんや。ほなら教わったやろが、「ともに」の与や。おい掾、立つんだ掾。それに相違あるまいな」 掾「(タヌキめ、こっちに振ったな)は、いかにも左様でござりまする。それに相違ござりませぬ。さりながら国司様、昭和のアニメのセリフを出されては読み手が混乱します。奈良時代に漫画はありません。正倉院の大々論の落書きもまだ描かれておりませぬ」 国司「あーわかったわかった、ゴジャゴジャ言いないな。それより介さんな、これでわかったやろ、大学出ぇの掾が請け合うとるんや、間違いないわ。それよりもな介さん、今宵は遅ぅになったさかい、お前様も呑んでお行き」 地元介「あいや、それがしは不調法でして(こんなことで丸め込まれてはかなわん。橘樹郡の皆にも申し訳が立たぬ 国司「ははぁ、介さんは若い後添いを貰ったと聞いたぞ。さては床急ぎじゃな。おー熱いこっちゃ。おい介、橘樹の介さんは床急ぎじゃとよ」 中央介「国司様、そんなに仰せられますとパワハラで訴えられます」 国司「何ぃ! そこもとこそ何だ、パワハラなんて現代用語を持ち出しよってからに」… かくして合意文書は国司側原案通りに決定、なんて想像するだけでワクワクするな。進めているうちに国司がだんだん米朝さんになっちゃった。この時に掾が使った円形硯が、遺跡の真向かいの歴史館に展示されています(ウソですよ❗大ウソですよ‼️)。 しかし六所一括奉斎は、そんな想像を掻き立てるくらい、巧妙な地位逆転策でもあったのではないか。 神々が国府に集まれば、恰もかれらが朝廷に仕えるようにもみえただろう。現に奈良中期から諸社に対する贈位が繁くなっている。この授受は帝位の優越を双方が認めなければ成立しまい。まさしく祭祀は統治行為=マツリゴトだったのだ。 だがそのシステム(どんな機構を経ようとも中央政府に服属する関係)が確立してしまえば、無理をして大規模な国府を維持する必要もなくなる。 国司らの遥任・受領化、荘園制の拡大、武士の登場等々、概して律令制の弛緩とか言われるが、これは律令の直訳的統治から日本カスタマイズというべきものだろう。もはやハコモノとしての国衙は無用となった。 これが行政施設のはかないところで、国府という存在は、その名称だけ継承した施設すら、日本の旧分国六十六ヶ国中に一ヶ所も残らなかった。ことごとく湮滅した。 ところが、同じ律令政府の産物なのに、国分寺や総社等の信仰の対象は、曲折を経ながらも伝わった。国府とは鮮やかな対照だ。 統治とか支配というものは、結局のところ時代相応に変転して行く、信仰(宗教とまで拡げてよいか、ちょっと確信がない)はそうではないということだ。 とすればこの国の王制は、統治機構としてよりも、信仰の対象、これはやや言い過ぎかな、ならば人々の心性に深く根差すものとして把握すべきものだと察せられる。 おっと話を大きくしてしまった、ごめん。 さて国衙の実質的終演はいつだろうか。 それに手がかりを提供するのも大国魂社だ。 社のサイトによれば、ここを北面にしたのは義家だったそうだ。 国衙は南面が当然の原則だった。日本の都城は、藤原京以来、何と昭和の宮殿が建てられるまで、絶対南面主義だった。ミニ朝廷の国衙もその例に漏れない。だが、台頭する武士の義家がその軌範をぶち壊した。ぶち壊して、恐らく既に往還として確立し始めた、後の甲州街道とのアクセス重視に切り替えたのだ。 その時期、実行者とも実に矛盾もないが、いかにもそれらしくて、象徴的でさえある。 信仰の施設は、このようにして変容しつつ生き残るのだろう。ただし存在の核心をはずれたものは残らない。そういう寺社...
Read more大国魂神社の東側にあります。 朱色のコンクリート柱が整然と立ち並び、一画には開放的な展示館があり、此方の由緒を説明しています。
以下は府中市のホームページからの抜粋です。
武蔵国(むさしのくに)の国府は、『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に「多麻郡に在り」との記載があるものの、所在地は特定されていませんでした。 江戸時代以降、五説が提起されていましたが、昭和50年以降の調査により、京所(きょうず)説の旧甲州街道に平行する2条の東西大溝と大國魂神社境内から確認された南北溝に囲まれた南北約300メートル、東西約200メートルの範囲が国衙(こくが)(=国府の中心にある役所区画)と判明しました。
国衙(こくが)域内では、掘立柱(ほったてばしら)から礎石(そせき)建ち建物に変遷する大型建物跡や、瓦やセンの多量出土がみられます。センとは、漢字でツチ編に専門の「専」と書き、古代のレンガのことです。
武蔵国(むさしのくに)21郡中19郡の郡名瓦やセンが出土しており、武蔵国(むさしのくに)の総力をあげた国衙(こくが)・国庁(こくちょう)(=国衙(こくが)のさらに中心にある中心区画)の造営の姿を現しているものと考えられます。国衙(こくが)の存続期間は、出土土器等から8世紀前半から10世紀後半までとみられ、他国の国府跡と共通性があります。 さらに、国衙(こくが)域内において確認された溝により、東西・南北約100メートルの区画が推定され、この中から確認された大型建物跡2棟が国庁(こくちょう)の「正殿」に匹敵する国衙(こくが)中枢建物跡と考えられています。 国衙(こくが)西側部分に相当する大國魂神社境内域と、上記国衙(こくが)中枢建物跡の保存箇所が指定範囲ですが、大型建物跡部分は...
Read more日本の律令制において各国中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、その中心となる政務機関の役所群を国衙、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼びました。こちらは、国衙で国司が地方政務を執った役所が置かれていた区画です。
国庁・郡庁は全国的に見ても、遺跡の判明しているものはきわめて少ないです。その理由としては、廃絶後長年月が過ぎていて遺跡が忘れ去られていることが多いことや、大部分が掘立柱建物なので地表に遺構をとどめることがないことなどがあげられます。1970年以降1400ヶ所に及ぶ調査が続けられ、大國魂神社を中心に南北300メートル東西200メートルが国衙であり、そのうち北寄りの100メートル四方が国衙と考えられています。国衙の西半分は大國魂神社境内に相当し、東半分は宅地化され、住宅が建ち並んでいます。こちらは、大國魂神社結婚式場の鳥居を出て徒歩数分のところにあります。鏡の建物は当時の建物の大きさのまま再現された博物館となっています。中に柱や再現図などがありました。
国衙地区(大國魂神社境内)国司館地区(国司館跡、(徳川家康の府中御殿跡)が国の...
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