現在、当時のものが現存するのは神奈川県にある一基のみで、都内にある二基(ここと北区の飛鳥山公園の南の西ヶ原)は、当時のものが残ったというより復元されたものらしいですね。一里という距離は約四キロだと学校で教えてましたが、飛鳥時代に中国から伝わった度量法(いわゆる尺貫法)では654.88メートルだったそうですが、鎌倉・室町時代に3,926.88メートルにしたそうだ。❬当時の単位で言うと36町になる❭しかし、この長さは一般庶民が普通の生活で利用することがないので普及しなかったらしい。徳川家康は街道整備の際に一里=36町を徹底させるために一里塚を築かせたらしいんですが、距離を明確にしたのは最初だけで、街道整備は幕府がすべて行ったわけじゃないので、地方の街道だと距離というより歩く時間を基本にした場所もあるそうで、平坦な道は長く、山道は短くしてあるところもあるし、山陽道では72町(約7,800メートル)間隔に設けられていたそうです。家康は、9メートル四方の塚を築かせ松や榎を植えさせたそうで、休憩地点や雨宿りする場所として築かせたようですが、街道に茶屋などができると、休憩地点としての役割が無くなり、江戸中期には修復され...
Read more志村一里塚 江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(一六○四)二月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、五間(約九m)四方、高さ一丈(約三m)の塚が江戸日本橋を基点として一里(四㎞弱)ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。
志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(一八三〇)の「新編武蔵風土記稿』では「中山道往還の左右にあり」と紹介されています。
幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり、さらに明治九年(一八七六)に廃を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和八年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。
今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。そのため交通史上の重要な遺跡として、大正十一年(一九二二)に国の史跡に指定され、昭和五十九年に板橋区の史跡に登録されました。
平成十七...
Read more銘板には、「江戸に幕府を開いた徳川家康は、街道整備のため、慶長九年(1609年)2月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。これにより、五間(約9m)四方、高さ一丈(約3m)塚が江戸日本橋を起点として一里(約四km弱)ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。 志村の一里塚は、本郷森川宿、板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(1830年)の『新編武蔵風土記稿』では、『中山道往還の左右にあり』と紹介されています」と、記されています。 明治になって、次々に壊されるなかで、現存するのはまれで、都内では北区西ヶ原と志村の二か所だけ。現在では、国指定の重...
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