志村氏によって築かれたという城。荒川と出井川に挟まれた⊂型の舌状台地上に存在してる。
江戸後期の地誌『新編武蔵風土記稿』には, 「志村城。村の西境にある。広さの方は160m。高台にあって,古い松が数株覆い茂り,熊野権現が鎮坐している。東の方には堀跡が少なく残っている……※」 とある。東側なので,日本電産コパル株式会社の辺りか。見渡したが,特にそれっぽいものはない。 また,現地案内板には,現在マンションが建っている辺りが本丸であり,境内地が西の丸跡。本丸と西の丸の間に城の残欠があるとしている。これは考古学的調査を根拠とした記載であろう。実際に見ると確かにくぼ地の様な土地が見られる。 境内地北面は現在も急斜面となっており,天然の土塁となっている。 なお,『板橋区史』によれば,遺構を主要三郭または主要二郭と理解する説を紹介しているが,そのいずれであるかは確定していない様である。
城史としてはまず室町時代中期。 坂東武士を統括する鎌倉公方 足利成氏とその補佐役兼監視役であった関東管領 上杉憲忠の対立が激化。遂に,享徳三年(1454年)十二月,足利成氏は御所に上杉憲忠を呼び込み殺害した。この結果,鎌倉公方勢 VS 関東管領勢による坂東武士を二分する戦争が勃発した(享徳の乱)。 この余波は房総半島の名家であった千葉氏にも及び,鎌倉公方勢の千葉氏と関東管領勢の千葉氏とに分裂。関東管領勢の千葉氏は,鎌倉公方勢の千葉氏に,敗戦を重ねて,現東京二十三区周辺に落ち延びてくる。 これが康正二年(1456年)の出来事。この際に関東管領勢の支援を受けたとみえ,現二十三区北縁の小浜城・赤塚城・志村城などに入城。志村城には,千葉信胤なる人物が入ったという。
それから約七十年後の大永四年(1524年)。享徳の乱で混乱した関東地方において,小田原の後北条氏が頭角を現し始める。後北条氏 二代目の氏綱は,関東制覇を目指して,関東南部へと北上。 この結果,そこを支配していた関東管領家...
Read moreIt was pretty nice but some guy was arguing with his uncle , something along the lines of "honor died on the beach"...
Read more高さはそれほどではないが角度のある高地にある。土塁等の遺構が残る熊野神社が程良く古びて雰囲気が良かった。しかし他の部分は何も残っておらず。又、道路も新しいもののようで往時の様子は偲ばれず、想像に頼るしかない。 (ココより妄想)すると、この高台が河岸台地に見えてきた。川沿いに郭が連なっているとすると、見慣れた縄張りの城にみえる。高台側は空堀があったろうか。崖下の川は何処へ流れて行くのか。高低差的に池袋方面か。いやそれでは千葉氏が確保する意味がない。一旦北上して当時江戸湾に流れこんでいた利根川に合流したのではないか。それなら千葉氏は川沿いに勢力を伸ばそうとした訳で筋は通る。
そんな訳で遺構はともかく地形的に...
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