龍禅寺の御本尊は鎌倉初期の阿弥陀如来坐像。脇侍として木造十一面観音坐像と室町期の木像地蔵菩薩坐像が安置される。
龍禅寺近くにある神明神社には伊勢神宮の神が祀られてあり、その由緒は不明であるが相馬御厨の西限に祀られたものといわれる。御厨は伊勢神宮の領地である。 天平勝宝の頃に縣犬養宿禰浄人が、相馬御厨の東端に行基作の馬頭観音像を安置して東漸寺観音堂を建立し、西端に行基作の地蔵菩薩像を安置して龍禅寺を建立したのが開基と考えられる。 縣犬養春枝の時代には龍禅寺の御本尊であったと思われる伝行基作の地蔵菩薩坐像は、おそらく相馬小次郎将門が創建した海禅寺に遷座されたが、将門討死時に御厨三郎将頼が海禅寺より持ち出して行方不明になったようだ。
地蔵菩薩の御利益に「武運長久」がある。 承平7年(937)に将門が龍禅寺で武運長久の祈願を行ったら三仏堂の前の井戸から水が噴き出して米になって降ってきたという。それ以来この地を米ノ井と呼ぶようになった。 龍禅寺は縣犬養一族そして将門一族の祈願所であったようだ。縣犬養春枝の娘であった将門の母、そして将門の妾であった桔梗御前も祈願のため龍禅寺を訪れたと伝えられる。
将門は妙見菩薩を守護神としていた。軍神としての妙見菩薩の本地仏は十一面観音であるといわれ 、坐像であることから将門の守り本尊として龍禅寺に安置されたかもしれない。
建久3年(1192)に源頼朝の命令で千葉常胤が三仏堂を修復したと伝えられるが、三世仏は南宋仏教の影響によるもので三仏堂は将門の時代には存在しなかったのでは… 千葉常胤が修復したのは龍禅寺本堂であったと考えるのが最も納得しやすい。 現在の龍禅寺本尊である阿弥陀如来坐像を安置したのが千葉常胤であろう。法然上人は龍禅寺阿弥陀三尊の開眼供養を頼まれたが、地蔵菩薩のために断ったという口伝が龍禅寺に伝わる。 千葉氏と法然上人は深い親交があったようだ。相馬師常は、父常胤が亡くなると出家して法然上人の弟子になったという。
鎌倉期の三仏堂は火災で焼失してしまったという。 現存する三仏堂は室町期のもので、この時期に竜禅寺で大きな修復事業があった。永禄11年(1568)に守谷城の拡張改修普請が行われたのと同時期である。 三仏堂は新守谷城主となる古河公方足利義氏の祈願所として再建されたかも知れない。守谷城改修普請に来ていた職人が三仏堂の再建にも関わったであろう。
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建仁2年(1202)藤原宗貞が堂舎を建立、本尊に阿弥陀仏、脇侍に観音地蔵を安置し、法然に供養を望んだところ、法然は三尊を見て「この堂は、源空が供養すべき堂にあらず」と退出したという。願主は法然が勢至菩薩の垂迹であると聞き、地蔵菩薩を勢至菩薩に替えて安置したところ、法然は引摂寺と名付けて供養したという。
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其氏族存者祭将門於此寺以為鎮守安置妙見菩薩 (堀田正俊「海禅寺縁起」より) おそらくは将門の叔父の平良文によって、海禅寺に妙見菩薩が安置されたと伝わる。妙見菩薩は千葉氏や相馬氏の時代には袍衣の下に鎧をまとった童子姿となったが、将門の時代には本地仏である十一面観音像を妙見菩薩として安置したと思われる。
( 「消災吉祥陀羅尼」の影響からか吉祥天像を妙見菩薩として祀る例も羽黒山や天台宗寺門派等で見られる )
( 中国風の鎧兜の北辰妙見は日蓮宗の影響によるもの )
なお、海禅寺には妙見菩薩像は現存しないようだ。あるいは龍禅寺の十一面観音坐像が、鎮守として安置された妙見菩薩なのかも。
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秩父郡皆野町の円福寺には将門の弟である葦原四郎将平の墓がある。五輪塔は首のない将平の遺体を寺僧が葬ったものとされている。
円福寺の本尊は阿弥陀如来で、右脇侍は勢至菩薩、左脇侍は十一面観音菩薩である。阿弥陀如来像の台座には天明元年(1782)の銘があり、勢至菩薩像も同時代の作とされる。しかし十一面観音菩薩像は、平安鎌倉時代に活躍した「院派」の仏師の作と考えられている。
おそらくは平安鎌倉期に将門一族の守り本尊として十一面観音像が安置されたが、室町中期以降は薬師如来が将門の守り本尊とされるようになり、十一面観音が妙見菩薩の本地仏であることは忘れられ、新たに本尊として安置された阿弥陀如来の脇侍とされたのであろう。
龍禅寺の十一面観音像もまた似たような経緯で脇侍とされたのではないかと思われる。その場合には対をなす脇侍として勢至菩薩像が新たに用意されると思われるが、安置されたのは木造地蔵菩薩坐像であった。
(龍禅寺の本尊は地蔵菩薩、十一面観音、阿弥陀如来の三仏であって、龍禅寺本堂が別名「三仏堂」と呼ばれていたように思える。のち南宋仏教の影響により釈迦、阿弥陀、弥勒の三世仏を祀った堂宇が新たに建立されたが三世堂ではなく三仏堂と呼ばれたと考えられる。)
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鎌倉初期に竜禅寺本堂に阿弥陀如来坐像が安置され、脇侍の観音菩薩も室町期に慶派と思われる仏師によって新たに作られた。が、出来上がったのは十一面観音ではなかったため、頭上に十一の仏面が付け加えられたようだ。
( 東漸寺観音堂の行基作の馬頭観音像は鎌倉期に新たに作り直されたとか… 最初に龍禅寺に安置された十一面観音は平良文が院派の仏師に依頼したものだった可能性もある… )
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明徳3年(1392)仏師了阿弥陀仏 十一面観音造立 龍禅寺本尊脇侍 応永3年(1396)地蔵菩薩 龍禅寺本尊脇侍 応永12年(1405)埼玉県本庄市 成身院百体観音堂 阿弥陀如来 下総国北相馬郡米井村 龍禅寺作 仏師了阿弥陀仏 寛正7年(1466) 成身院百体観音堂 薬師如来 造立 天文15年(1546) 成身院百体観音堂 阿弥陀如来 釈迦如来 修理
成身院にある龍禅寺作の阿弥陀如来が、おそらくは火災で焼失したと伝わる旧三仏堂の御本尊の一体ではなかったか? 釈迦如来も阿弥陀如来と同時期に修理されたことから龍禅寺にて製作されたものと考えられている。次回の修理調査の機会に一木三体彫りであることが確認される等が大いに期待される。
龍禅寺三仏堂には釈迦 阿弥陀 弥勒 だが成身院では薬師 釈迦 阿弥陀が百体観音堂の二階に安置される。 成身院の百体観音堂は三階建ての「さざえ堂」で取手市内の長禅寺三世堂とともに全国で五棟しか残ってないさざえ堂の一つ。長禅寺の三世堂は、成就院の百体観音堂より構想を得たように思われる。
なぜ弥勒ではなく薬師なのか?
龍禅寺の三仏堂は唐招提寺金堂の三仏を彷彿とさせる。 縣犬養浄人は、奈良の東端にあった東大寺興福寺と西端にあった薬師寺唐招提寺に倣って、相馬御厨の東端と西端に東漸寺と龍禅寺を創建したのではないか。
鎌倉期に焼失したと伝えられる旧三仏堂に安置されていたのが、盧遮那仏の代わりに釈迦、千手観音の代わりに阿弥陀、そして薬師だとすれば、南宋仏教の三世仏の影響を受ける以前から唐招提寺金堂に倣って三仏堂が造立されてあった可能性はある。
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長禅寺三世堂が十一面観音を守本尊とする将門新皇の勅願所として創建されたと伝えられる。長禅寺の御本尊である地蔵菩薩像は御厨三郎将頼が守り後世に伝えたという。
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Read more米井山無量寿院龍禅寺 天台宗の古刹です。 茅葺の三仏堂(国指定重要文化財)は見応えがあります。 創建:延長2年(924年)、平将門公の開基と伝わります。 三仏堂の名称は、釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来の三尊を祀ることによるもので、三尊はそれぞれ過去、現在、未来を意味するとされています。 山号は、平将門公が天慶2年(939年)、武運長久を祈願しに詣でたところ、堂前の井戸から米が噴き出すというめおめでたい出来事があったとの言い伝えによるものです。 鎮座している取手市米ノ井の地名の由来になったと伝えられています。 また、将門公は三仏堂で生まれたとも伝えられ、近くには将門公の愛妾桔梗御前の菩提を弔う桔梗塚があり、龍禅寺と将門伝説との深い...
Read more2023.9.3
茨城県取手市にある龍禅寺は、天台宗の寺院である。境内には、国指定重要文化財の三仏堂をはじめ、多くの見どころがある。
三仏堂は、1569年に建てられた茅葺き屋根の仏堂である。釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩の三尊仏を安置する。三方裳階と呼ばれる独特な平面構成が特徴で、中世の建築様式を伝える貴重な建物である。
秋には、境内にはキンモクセイが咲き誇り、甘い香りが漂う。また、紅葉も見事で、境内が彩られる。
龍禅寺は、歴史的価値の高い文化財を有する一方で、四季折々の自然を楽しむことができる寺院である。歴史や自然に興味がある人には、...
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