ミマナのアヤ(韓半島南部の国)『ホツマツタヱ34アヤ』 ミツカキ(瑞垣、崇神天皇)にミヤコの営まれていた際の事でした。 十代ミマキ(崇神天皇)の、58年のハツキ(8月)に、ミマキのキミはミユキ(御幸)をなさいました。それは、ケヰオオカミ(気比神宮・敦賀市)に詣でるためでした。ここで祭典をしているときに、ツノが一 つある人が、タタヨエリ(漂う、徒に寄って来か?)でした。ところが、コトハ(言葉)は聞いても理解できませんでした。そこで、ハラ(富士山南麓)のミヤのトミのソロリ・ヨシタケ(徐福の子孫と考えられま す、ホ39ー67「ソロリには」の典拠あり)は異国の言葉に詳しいので、問わしめたのでした。すると、ツノがひとつある人が答えます。(我が国の言葉には、そう聞こえる訳です) 『わたくしは、カラクニのキミのミコであります。ツノガアラシトと言います。父の名はウシキアラシトと言います。尊いお方だと伝え聞きましたヒシリのキミに、マツラフことにと決めて尋ね来たりましたのです。初めに、アナト(下関のあたり)に至りましたら、ヰツツヒコが言いました。「このクニのキミはわれなり。ここに居れば良い」と。ですが、その人なりを見まするに、どうもきちっとしたキミとは違うようでした。そこで、其処を辞しまして、ミヤコへと道を取りました。ウラシマを転々と尋ね歩いて、イツモ(出雲)をへて、漸くここに辿り着きました。カミ祭りのため、キミはケヰにおいでであると聞きましたからでした』 ここに、ツノガ(ツノガアラシト)を、仕えさせる事になさいました。5年のうちに、マメ(忠節)が認められました。そこで、「ミマナ」と言うクニの新名称をツヌガアラシトに賜るのでした。「ミマキイリヒコ (崇神天皇)」さんのお名前からの命名です。韓半島の南岸の中央部の「カラ」は「ミマナ(任那)」と称されます。また、帰国にあたって、土産物を賜るツノガアラシトでした。カソミネ・ニシキ(北海道の錦の 織物)を土産物に、ミマナクニ(元はカラクニ)に帰って、ここにクニとクニとの行き来が結ばれたのでした。 さて、帰国の途に就いたツノガアラシトは、海を渡り韓半島に戻ります。シラギのクニからの陸伝いにミマナ(カラ)への道でした。アメウシ【牛の一種、詳細は未詳】に荷物を乗せての行程でしたが、ある時ウ シがいなくなってしまいました。そこに、ヲキナ(老父)が居て、答えます。 『ウシの事なら、大体想像されます。この先にて、既に御馳走にと食してしまう集まりがあるようでした。 若(も)しも、ウシの持ち主が来たらば、アタヒ(対価)を払おう。と、言っていたようでして、もうウシは殺してしまっていますですね。 これは、お勧めですが、この先でアタヒを問われたならば、「祭るカミを、得ん」と、お答えになるのが宜しいでしょう』 ツノガアラシトがその村に行きますと、ムラキミがウシ(牛)のアタヒを問うのでした。ツノガアラシトは、「祭るカミを得ん」と言うと、差し出された、カミのシライシを持ち帰るのでした。 さて、枕元に置いておくと、シライシはオトメに変化するのでした。ツヌガアラシトはオトメにトツガンとして思い行くうちに、ヒメは失せてしまいました。さらに、家に戻ってツマに問いますと、「オトメはキ サ(東南)に去りました」と言うのです。 ツノガアラシトは、オトメの行く跡を訪ねて追い行きまして、フネを海に浮かべまして、また日本に来ます。ついに、ナミハ(大阪)のヒメコソのミヤ(大阪市東成区東小橋、比売許曽神社)にて、会うことが出 来ました。しかしオトメは、また、ここから出て行きまして、トヨクニのヒメコソのミヤ(豊前、大分県東国東郡姫島村、比売語曽神社)にてカミになってしまいました。(姫島は、良質の黒曜石のとれる所です。 象徴的な記述がここに為されているのかも知れません) 結局、ツヌガアラシトは土産物を奪われてしまったのでした。この故に、シラギとミマナ(カラ)との間にアタ(アダ、仇敵関係)が生じるのでした。このため、ミマナからの使いがまた、ミマキイリヒコさんの 許に来ります。ミマナの使いは言います。 『我が国のキネ(東北)に、ミハエという土地があります。カミハエ・ナカハエ・シモハエのミハエは、広い土地で肥えた土でタミも豊かです。 ところが、隣国のシラギとの抗争が起こってから、ミハエは治め難くなってしまいました。ホコをタツネテ【詳細は未詳】タミ活きず、の、有様です。 そこで、私ミマナのトミとしての願いで御座います。クニムケのヲシ(勅任の平定軍)の派遣を希(こいねが)うばかりで御座います』 ミマキイリヒコさんは、諸臣と対応を協議なさいます。トミは申し上げます。 『派遣する人の人選につきまして、クニフク(ヒコクニフク)のマコ(子孫)のシホノリツさんが最も良いと思われます。(5代カヱシネ(孝昭天皇)の長男のカスガヲキミ(オシキネ)の子孫)シホノリツは、コウヘ(頭)にミコフ(瘤)があってマツのキミとも 渾名(あだな)されていまして、背丈がヒタケヰタ(1丈5尺)あります。力も強くてヤソチカラ(80人力)だと言われて、イサミも激しいので、派遣に最適でありましょう』 ミマキイリヒコさん(崇神天皇)はミコトノリをしておっしゃいます。『シホノリヒコ(シホノリツ)をして、ミマナ・ヲシに任じます。ミマナに行き、速やかに平定を為すミチツカサとしての任です。平定後は、帰国すると良い』と、シホノリヒコにカハネ(姓)を賜うのでした。(ワニのカハネか?、 ホ36‐33。後の子孫の吉田連(きちだのむらじ)は、『続日本紀』『続日本後記』『新撰姓氏録』に典拠あり) (C) 池田 満 『ホツマツタヱ34アヤ』日本...
Read more古代朝鮮の王子が角鹿神社に祀られている?
古代朝鮮の王子が日本に逃亡? 現在の福井県敦賀市には、 奇妙な伝承が存在する。
伝承の中心地は、 『角鹿神社』(つぬがじんじゃ) 実は、この神社で祀られている神様は、 「ツヌガアラシト」という 古代朝鮮の王子と言われている。
さらに、この地の地名は、 「角鹿(つぬが)」と呼ばれている。
****** この地名は、
ツヌガアラシトの名から由来している。
もしくは、日本書紀に
『額に角有る人が越国の笥飯浦(けひうら : ...
Read more2017.09.19.(火)13:00 2回参拝 (奈良斑鳩人) 気比神宮境内の東の端に 三社が鎮座する 中の 一番大きく右端の社が コノ角鹿神社 (ツヌガジンシャ)です
御祭神は 都怒我阿羅斯等命(ツヌガアラシトノミコト)で 社殿の拝殿は 室町時代後期の1592年に建立 され その後1702年 1823年 1851年と改築 されたと有ります また1878年(M.10)には 境内で第一摂社に なったトノ事です
なお社殿の建築様式は 本殿流造銅板葺拝殿 で 白い壁に柱型が鮮やかな朱色で 濃緑の 格子建具と 屋根の緑青との取り合わせが 良く 格式と落ち着きの有る設計で...
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