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Former Ushiku Castle Site — Attraction in Ushiku

Name
Former Ushiku Castle Site
Description
Nearby attractions
Ungyotei Atelier
2690-3 Jochucho, Ushiku, Ibaraki 300-1223, Japan
Kappa no Ishibumi Stone Monument
Jochucho, Ushiku, Ibaraki 300-1223, Japan
Tokugetsuin
258 Jochucho, Ushiku, Ibaraki 300-1223, Japan
Nearby restaurants
Sansuikaku
282-40 Shobee Shindenmachi, Ryugasaki, Ibaraki 301-0031, Japan
Menya Gen Ramen
1058-1 Ushikucho, Ushiku, Ibaraki 300-1221, Japan
Nearby hotels
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Keywords
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Former Ushiku Castle Site
JapanIbaraki PrefectureUshikuFormer Ushiku Castle Site

Basic Info

Former Ushiku Castle Site

Jochucho, Ushiku, Ibaraki 300-1223, Japan
3.5(55)
Open until 12:00 AM
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spot

Ratings & Description

Info

Cultural
Outdoor
Scenic
Off the beaten path
attractions: Ungyotei Atelier, Kappa no Ishibumi Stone Monument, Tokugetsuin, restaurants: Sansuikaku, Menya Gen Ramen
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Phone
+81 29-874-3121
Website
city.ushiku.lg.jp
Open hoursSee all hours
TueOpen 24 hoursOpen

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Reviews

Nearby attractions of Former Ushiku Castle Site

Ungyotei Atelier

Kappa no Ishibumi Stone Monument

Tokugetsuin

Ungyotei Atelier

Ungyotei Atelier

3.7

(40)

Closed
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Kappa no Ishibumi Stone Monument

Kappa no Ishibumi Stone Monument

3.6

(82)

Open 24 hours
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Tokugetsuin

Tokugetsuin

4.1

(26)

Open 24 hours
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Things to do nearby

Bake Japanese bread in a nutritionist’s kitchen
Bake Japanese bread in a nutritionist’s kitchen
Tue, Dec 9 • 11:00 AM
270-0034, Chiba, Matsudo, Japan
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A customized experience with a fashion stylist
A customized experience with a fashion stylist
Thu, Dec 11 • 10:30 AM
270-2223, Chiba, Matsudo, Japan
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Nearby restaurants of Former Ushiku Castle Site

Sansuikaku

Menya Gen Ramen

Sansuikaku

Sansuikaku

4.0

(202)

$$$

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Menya Gen Ramen

Menya Gen Ramen

3.9

(321)

Click for details
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久住一美久住一美
【当史跡】は、戦国末期において封建制度の確立を見る江戸時代の萌芽となる戦いを繰り広げた痕跡である。北からは北関東一の勢力を誇った源氏の名門「佐竹氏」が、南からは関東南部を下剋上により強力軍団築き上げた新興勢力「後北条氏」が、それぞれ当地を支配下に置くために侵出していた。 【概要】下妻の「多賀谷氏(タガヤシ)」が常南の覇権を求めて南進することに対抗して、牛久の「岡見氏(オカミシ)」が築造したものである。当城は、岡見氏の支配するものの中では、足高城(アダカジョウ)や谷田部城(ヤタベジョウ)とともに同氏の中核の城であった。谷田部と足高と牛久の三角形の盾が、岡見氏の強固な防御態勢である。このため最前線の谷田部城には岡見氏一族の岡見主殿が入城して、岡見氏の命運を託したのであろう。 戦国末期に北関東一の戦国大名となった「佐竹氏(サタケシ)」と小田原城を拠点に関東の中心部を席巻した「後北条氏(ゴホウジョウシ)」とが関東の覇権を競った最前線が当地である。そして、この対立軸の代理者となったのが、多賀谷氏と岡見氏である。 【岡見氏】(オカミシ)は、筑波の小田氏から分流し、戦国時代に牛久城を本拠地として常陸国河内郡を支配。小田氏が没落してからは小田原の後北条氏と同盟し、多賀谷氏と戦ってきた。そして、天正18(1590)年に豊臣秀吉の関東攻めで、岡見氏は後北条氏の滅亡により牛久城を去った。 【岡見城】は、室町時代から戦国時代に活躍した岡見氏の城で、小野川に面した岡見の台地(茨城県牛久市市岡見町1579)に築城され南北朝時代から戦国時代まで使われ、土塁や空堀の跡が残っている。「岡見氏」は、南北朝時代にこの地に城を築き、岡見の地名を名乗るようになったと言い伝えられている。ところで、岡見氏が、居城を岡見城から牛久城に移したのは如何なる理由によるものなのだろうか?。多賀谷氏の岡見氏領地への進入経路が、多賀谷城が鬼怒川と小貝川に立地することから当地の西方向が想定されたのかもしれない。その後の岡見城については詳らかではないが、小田原征伐の際に廃城になったものと考えられる。 【所在地】は、茨城県牛久市城中町(〒300-1223)である。 【築造】は、佐竹氏の南進に伴い城主の岡見氏によって天文後半(1550年頃)に行われた。築造に当たっては、後北条氏の技術を活用された。 【足高城】(アダカジョウ)は、岡見氏領地統治の中心である「牛久城」との連携による岡見氏の繁栄のシンボルであったが、城中八幡神社の境内地(茨城県つくばみらい市城中808)とされている。城中八幡神社の南東にある城中公民館の敷地内には土塁跡がある。この土塁跡は,方墳のような形状でぽつんと残されているが,これは駐車場敷地等の造成の結果であり、本来は主郭を区画する長い土塁だったようだ。また,城中八幡神社の参道脇には堀跡がある。かつての城跡が現役の城であった頃は、一の郭から堀へ、そして船着き場が設けられて、岡見氏の主城である牛久城への水運が稼働していたのだろう。 【谷田部城】は、つくば市谷田部に立地する「八幡宮」(茨城県つくば市谷田部3025)が小字二の丸にあることから、ここを含む地域にあったのでないだろうか?。 拠点を岡見城から牛久城に移す以前の確かな足跡は、永禄期(1558年~1570年)に岡見氏の惣領的な立場であった「岡見治資(オカミハルスケ)」が谷田部城城主であったことが『小田氏治味方地利覚書』に記載がある程度である。 「多賀谷政経(タガヤマサツネ)」が、元亀2(1571)年に谷田部城を攻め落とし、弟の「多賀谷経伯(タガヤツネノリ)」にこれを守らせた。 天正8(1580)年に北条氏邦・氏照の兵3000騎が、牛久城主岡見治部治広と共に谷田部城を回復しようと出動した。多賀谷経伯が下妻に急報すると、子の経明が真っ先に馳けつけて来て、斬り合っている。これをみた経伯は急ぎ城内に助け入れたが、勇ましくも出撃してともに戦死を遂げた。 城兵は恐怖に陥ったが、面井館(高谷大膳家堀之内現存)に居た「多賀谷重経(タガヤシゲツネ)」が切歯扼腕して来援し、南方勢(北条・岡見連合軍)を惨敗させ500有余をたおした。 【惣構え】牛久城は東西約800m、南北約1kmに及ぶ城中全体を取り囲んだ惣構えをもっている。三方を牛久沼に囲まれた台地の上にあり、主郭を中心として中城と外郭の外郭部を取り囲む防禦線が築かれている。城のある台地は浸食谷によっていくつかの舌状台地になっており、城の東と西に牛久沼の水が入り込んでいて防御に適している。更に外部と連絡するのは北側の台地上を行くしかないのであるが、その台地がかなり細くなっているため、ここを切断すると台地全体が独立し、さらに防御が楽であったことが分かっている。 足高城も、主郭部は城中八幡神社付近であるが、土塁や堀がこの北部にも存在し、瑞源寺、さらに北の千手院付近にも城郭の遺構が存在する。千手院の裏には大手橋が古図に描かれているようだ。また、谷田部城は八幡宮周辺であると思われるが、この北方に「谷田部大濠」なる史跡が存在する。これは、「福田坪地蔵尊」の北側に西谷田川の水田地帯の溜め池から同尊の北側を抜けて谷田川の水田地帯の手前までに想定される。両城の状況を解釈すれば、惣構えの外郭線を形成したものと考える。この歴史的背景は、「鉄砲」の普及ではないかと推測する。 多賀谷重経は1000挺もの鉄砲隊を保有しており、関東では佐竹氏の鉄砲隊と並ぶ規模である。このことは、多賀谷氏の居城がある下妻という県西地域には、親鸞聖人旧跡である「小島草庵」や「稲田御坊」が存在することで、鉄砲集団の根来衆や雑賀衆を抱えた本願寺との繋がりを有する地域性があるかもしれない!。 【香取海】が牛久城跡の際まで押し寄せていたのかもしれない。同城内の複雑な舌状台地が形成されるには相当の反復及び水量を要すると思われる。同城の東西を流れる谷田川や根古屋川の南北の単調な流れではそれは無理なのではないか?。それを可能とするのは、何度かの海進及び連続する波並びに潮の干満などに因ると考える。このことを裏付ける事象として当地を存する利根川沿いの茨城県南部には竹の群生が見られることである。竹は南方の植物であり、これをもたらしたのが香取海と判断するからである。 【接道】は、北からは県1590右手に特別養護老人ホーム施設が見えるので、先に進むと右手に「市営駐車場」が見えてくる。牛久城跡へはここからさらに先に進むと、左側に小さい案内標示が見えてくる。これに従い左折すると城内の中心部に入り、城跡の中心線となる。 南からは国道6号線で同線バイパスの南の分岐点信号の一つ手前の変則の交差点を西に進み、根古屋橋を渡り道なりに進むと根古屋集落に入り、さらにさらに進むと右手に前述の案内標示が右側に見えてくる。 【駐車場】は、先程の市営駐車場(牛久市城中町119-3)が基本である。駐車台数は、約20台である。 【トイレ】は、未整備と思われるので、ここに来るまでにコンビニ等で用を済ませてくるのがベストである。(訪問日令和5年12月17日(日))
おやじ三等兵おやじ三等兵
かつて牛久沼に突き出た半島の台地に岡見氏が築城したお城です。大手門から主郭部まで1キロ近くあり、大手門脇に総構堀が現存。城中町内部にも土塁や空堀の遺構が残ります。 子供の頃、当時は竹藪の中に埋もれており一度中に入ると出られなくなりそうな怖さがありました。近年は手入れが行き届いており藪こぎしなくても当時の遺構が確認出来ます。 主郭部は本丸、二の丸、三の丸、腰郭があり郭は空堀によって区切られていて土橋がかけられています。 郭を取り巻く空堀は横矢掛け、畝状の堀内土塁も見られ堀底を歩く事も可能で北条流築城術の素晴らしさを観ることが出来ます。 牛久城登城の際には得月院にも寄るのもオススメです。 岡見氏が北条氏に付き、小田原征伐後に由良氏が入りました。 その由良氏初代当主、由良国繁の母に縁のあるお寺でもあります。 その得月院裏の空堀は総構空堀と二重空堀になり武者走りの様な広さもありました。 牛久城の周りにも東林寺城、遠山城など埋もれたお城があるのでそちらもオススメです。 最近大手門前に牛久土浦6号バイパスが開通し、大手門前の交差点がちょっと危ないです。 駐車場は大手門側から入ると得月院、牛久城の南部には市営の無料駐車場があります。 私有地内部の遺構もありますので登城の際には気をつけましょう。 地主様も世話好きな方も多く昔の話や敷地内の遺構を見せて下さる方も多いです。 城北側に無料の市営駐車場があり、ヘルスロード「牛久沼かっぱの小径コース」にも入っているのでそれなりに人は訪れています。 定期的に散歩に来ていますがキチンと枝打ち等の手入れがされており散策しやすい城跡ですね♪ 暖かい日は虫が湧きやすく竹林なので藪蚊もワンサカ☆ 冬〜春先の頃が藪も少なく多くの遺構が見れるのでオススメです。
Rin MocaRin Moca
最近岡見城、牛久城の支城足高城址、岡見氏後に復興にあたった由良国繁公が創建に関わった瑞源寺を訪れました。その流れで、牛久城址へ。当時の強者たちへの敬意を表すため、あえて城郭内の写真は撮りませんでした。、 国道6号牛久土浦バイパス沿いから得月院前の駐車場に車を停め散策。得月院には先日お会いした由良国繁公の母君による五輪塔があり、縁を感じました。 まず、集落入り口に大手門跡があります。地元の方にうかがうと、牛久城の周辺は当時沼に囲われており、大手門に至る道のみが、外部の陸地とつながっていたそうです。他の方がお書きになっていましたが、香取海の海進があったのかもしれません。 さて、牛久城址へは、牛久沼側と、住宅地側との2方面からアクセスできます。カッパ関連の標識しかないので、駐車場にある地図かGooglemapにお世話になるしかありません。牛久城に関する案内板があるのは住宅地側、畑側からの入り口付近です。今は残念ながら、縄張り図がほぼ判別できない状態です。 私は牛久沼側からのアクセスを試みました。虫さんも結構いて、植物が覆い被さっている部分もやや不安を感じる歩道の状況でしたが、周辺の中世城郭、取手市の高井城址、坂東市の逆井城址と比較しても、空堀や構築物の跡など、圧倒的な規模を誇っています。江戸期に廃城になるまで存続した理由がわかる、頑強な造りです。筍をとっちゃダメという看板もありましたが、そんな人いるの?とびっくりしました。 極めて貴重な中世城郭跡だと思います。歴史に関心のある方は、ぜひお訪ねください。感動します。
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【当史跡】は、戦国末期において封建制度の確立を見る江戸時代の萌芽となる戦いを繰り広げた痕跡である。北からは北関東一の勢力を誇った源氏の名門「佐竹氏」が、南からは関東南部を下剋上により強力軍団築き上げた新興勢力「後北条氏」が、それぞれ当地を支配下に置くために侵出していた。 【概要】下妻の「多賀谷氏(タガヤシ)」が常南の覇権を求めて南進することに対抗して、牛久の「岡見氏(オカミシ)」が築造したものである。当城は、岡見氏の支配するものの中では、足高城(アダカジョウ)や谷田部城(ヤタベジョウ)とともに同氏の中核の城であった。谷田部と足高と牛久の三角形の盾が、岡見氏の強固な防御態勢である。このため最前線の谷田部城には岡見氏一族の岡見主殿が入城して、岡見氏の命運を託したのであろう。 戦国末期に北関東一の戦国大名となった「佐竹氏(サタケシ)」と小田原城を拠点に関東の中心部を席巻した「後北条氏(ゴホウジョウシ)」とが関東の覇権を競った最前線が当地である。そして、この対立軸の代理者となったのが、多賀谷氏と岡見氏である。 【岡見氏】(オカミシ)は、筑波の小田氏から分流し、戦国時代に牛久城を本拠地として常陸国河内郡を支配。小田氏が没落してからは小田原の後北条氏と同盟し、多賀谷氏と戦ってきた。そして、天正18(1590)年に豊臣秀吉の関東攻めで、岡見氏は後北条氏の滅亡により牛久城を去った。 【岡見城】は、室町時代から戦国時代に活躍した岡見氏の城で、小野川に面した岡見の台地(茨城県牛久市市岡見町1579)に築城され南北朝時代から戦国時代まで使われ、土塁や空堀の跡が残っている。「岡見氏」は、南北朝時代にこの地に城を築き、岡見の地名を名乗るようになったと言い伝えられている。ところで、岡見氏が、居城を岡見城から牛久城に移したのは如何なる理由によるものなのだろうか?。多賀谷氏の岡見氏領地への進入経路が、多賀谷城が鬼怒川と小貝川に立地することから当地の西方向が想定されたのかもしれない。その後の岡見城については詳らかではないが、小田原征伐の際に廃城になったものと考えられる。 【所在地】は、茨城県牛久市城中町(〒300-1223)である。 【築造】は、佐竹氏の南進に伴い城主の岡見氏によって天文後半(1550年頃)に行われた。築造に当たっては、後北条氏の技術を活用された。 【足高城】(アダカジョウ)は、岡見氏領地統治の中心である「牛久城」との連携による岡見氏の繁栄のシンボルであったが、城中八幡神社の境内地(茨城県つくばみらい市城中808)とされている。城中八幡神社の南東にある城中公民館の敷地内には土塁跡がある。この土塁跡は,方墳のような形状でぽつんと残されているが,これは駐車場敷地等の造成の結果であり、本来は主郭を区画する長い土塁だったようだ。また,城中八幡神社の参道脇には堀跡がある。かつての城跡が現役の城であった頃は、一の郭から堀へ、そして船着き場が設けられて、岡見氏の主城である牛久城への水運が稼働していたのだろう。 【谷田部城】は、つくば市谷田部に立地する「八幡宮」(茨城県つくば市谷田部3025)が小字二の丸にあることから、ここを含む地域にあったのでないだろうか?。 拠点を岡見城から牛久城に移す以前の確かな足跡は、永禄期(1558年~1570年)に岡見氏の惣領的な立場であった「岡見治資(オカミハルスケ)」が谷田部城城主であったことが『小田氏治味方地利覚書』に記載がある程度である。 「多賀谷政経(タガヤマサツネ)」が、元亀2(1571)年に谷田部城を攻め落とし、弟の「多賀谷経伯(タガヤツネノリ)」にこれを守らせた。 天正8(1580)年に北条氏邦・氏照の兵3000騎が、牛久城主岡見治部治広と共に谷田部城を回復しようと出動した。多賀谷経伯が下妻に急報すると、子の経明が真っ先に馳けつけて来て、斬り合っている。これをみた経伯は急ぎ城内に助け入れたが、勇ましくも出撃してともに戦死を遂げた。 城兵は恐怖に陥ったが、面井館(高谷大膳家堀之内現存)に居た「多賀谷重経(タガヤシゲツネ)」が切歯扼腕して来援し、南方勢(北条・岡見連合軍)を惨敗させ500有余をたおした。 【惣構え】牛久城は東西約800m、南北約1kmに及ぶ城中全体を取り囲んだ惣構えをもっている。三方を牛久沼に囲まれた台地の上にあり、主郭を中心として中城と外郭の外郭部を取り囲む防禦線が築かれている。城のある台地は浸食谷によっていくつかの舌状台地になっており、城の東と西に牛久沼の水が入り込んでいて防御に適している。更に外部と連絡するのは北側の台地上を行くしかないのであるが、その台地がかなり細くなっているため、ここを切断すると台地全体が独立し、さらに防御が楽であったことが分かっている。 足高城も、主郭部は城中八幡神社付近であるが、土塁や堀がこの北部にも存在し、瑞源寺、さらに北の千手院付近にも城郭の遺構が存在する。千手院の裏には大手橋が古図に描かれているようだ。また、谷田部城は八幡宮周辺であると思われるが、この北方に「谷田部大濠」なる史跡が存在する。これは、「福田坪地蔵尊」の北側に西谷田川の水田地帯の溜め池から同尊の北側を抜けて谷田川の水田地帯の手前までに想定される。両城の状況を解釈すれば、惣構えの外郭線を形成したものと考える。この歴史的背景は、「鉄砲」の普及ではないかと推測する。 多賀谷重経は1000挺もの鉄砲隊を保有しており、関東では佐竹氏の鉄砲隊と並ぶ規模である。このことは、多賀谷氏の居城がある下妻という県西地域には、親鸞聖人旧跡である「小島草庵」や「稲田御坊」が存在することで、鉄砲集団の根来衆や雑賀衆を抱えた本願寺との繋がりを有する地域性があるかもしれない!。 【香取海】が牛久城跡の際まで押し寄せていたのかもしれない。同城内の複雑な舌状台地が形成されるには相当の反復及び水量を要すると思われる。同城の東西を流れる谷田川や根古屋川の南北の単調な流れではそれは無理なのではないか?。それを可能とするのは、何度かの海進及び連続する波並びに潮の干満などに因ると考える。このことを裏付ける事象として当地を存する利根川沿いの茨城県南部には竹の群生が見られることである。竹は南方の植物であり、これをもたらしたのが香取海と判断するからである。 【接道】は、北からは県1590右手に特別養護老人ホーム施設が見えるので、先に進むと右手に「市営駐車場」が見えてくる。牛久城跡へはここからさらに先に進むと、左側に小さい案内標示が見えてくる。これに従い左折すると城内の中心部に入り、城跡の中心線となる。 南からは国道6号線で同線バイパスの南の分岐点信号の一つ手前の変則の交差点を西に進み、根古屋橋を渡り道なりに進むと根古屋集落に入り、さらにさらに進むと右手に前述の案内標示が右側に見えてくる。 【駐車場】は、先程の市営駐車場(牛久市城中町119-3)が基本である。駐車台数は、約20台である。 【トイレ】は、未整備と思われるので、ここに来るまでにコンビニ等で用を済ませてくるのがベストである。(訪問日令和5年12月17日(日))
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かつて牛久沼に突き出た半島の台地に岡見氏が築城したお城です。大手門から主郭部まで1キロ近くあり、大手門脇に総構堀が現存。城中町内部にも土塁や空堀の遺構が残ります。 子供の頃、当時は竹藪の中に埋もれており一度中に入ると出られなくなりそうな怖さがありました。近年は手入れが行き届いており藪こぎしなくても当時の遺構が確認出来ます。 主郭部は本丸、二の丸、三の丸、腰郭があり郭は空堀によって区切られていて土橋がかけられています。 郭を取り巻く空堀は横矢掛け、畝状の堀内土塁も見られ堀底を歩く事も可能で北条流築城術の素晴らしさを観ることが出来ます。 牛久城登城の際には得月院にも寄るのもオススメです。 岡見氏が北条氏に付き、小田原征伐後に由良氏が入りました。 その由良氏初代当主、由良国繁の母に縁のあるお寺でもあります。 その得月院裏の空堀は総構空堀と二重空堀になり武者走りの様な広さもありました。 牛久城の周りにも東林寺城、遠山城など埋もれたお城があるのでそちらもオススメです。 最近大手門前に牛久土浦6号バイパスが開通し、大手門前の交差点がちょっと危ないです。 駐車場は大手門側から入ると得月院、牛久城の南部には市営の無料駐車場があります。 私有地内部の遺構もありますので登城の際には気をつけましょう。 地主様も世話好きな方も多く昔の話や敷地内の遺構を見せて下さる方も多いです。 城北側に無料の市営駐車場があり、ヘルスロード「牛久沼かっぱの小径コース」にも入っているのでそれなりに人は訪れています。 定期的に散歩に来ていますがキチンと枝打ち等の手入れがされており散策しやすい城跡ですね♪ 暖かい日は虫が湧きやすく竹林なので藪蚊もワンサカ☆ 冬〜春先の頃が藪も少なく多くの遺構が見れるのでオススメです。
おやじ三等兵

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最近岡見城、牛久城の支城足高城址、岡見氏後に復興にあたった由良国繁公が創建に関わった瑞源寺を訪れました。その流れで、牛久城址へ。当時の強者たちへの敬意を表すため、あえて城郭内の写真は撮りませんでした。、 国道6号牛久土浦バイパス沿いから得月院前の駐車場に車を停め散策。得月院には先日お会いした由良国繁公の母君による五輪塔があり、縁を感じました。 まず、集落入り口に大手門跡があります。地元の方にうかがうと、牛久城の周辺は当時沼に囲われており、大手門に至る道のみが、外部の陸地とつながっていたそうです。他の方がお書きになっていましたが、香取海の海進があったのかもしれません。 さて、牛久城址へは、牛久沼側と、住宅地側との2方面からアクセスできます。カッパ関連の標識しかないので、駐車場にある地図かGooglemapにお世話になるしかありません。牛久城に関する案内板があるのは住宅地側、畑側からの入り口付近です。今は残念ながら、縄張り図がほぼ判別できない状態です。 私は牛久沼側からのアクセスを試みました。虫さんも結構いて、植物が覆い被さっている部分もやや不安を感じる歩道の状況でしたが、周辺の中世城郭、取手市の高井城址、坂東市の逆井城址と比較しても、空堀や構築物の跡など、圧倒的な規模を誇っています。江戸期に廃城になるまで存続した理由がわかる、頑強な造りです。筍をとっちゃダメという看板もありましたが、そんな人いるの?とびっくりしました。 極めて貴重な中世城郭跡だと思います。歴史に関心のある方は、ぜひお訪ねください。感動します。
Rin Moca

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【当史跡】は、戦国末期において封建制度の確立を見る江戸時代の萌芽となる戦いを繰り広げた痕跡である。北からは北関東一の勢力を誇った源氏の名門「佐竹氏」が、南からは関東南部を下剋上により強力軍団築き上げた新興勢力「後北条氏」が、それぞれ当地を支配下に置くために侵出していた。 【概要】下妻の「多賀谷氏(タガヤシ)」が常南の覇権を求めて南進することに対抗して、牛久の「岡見氏(オカミシ)」が築造したものである。当城は、岡見氏の支配するものの中では、足高城(アダカジョウ)や谷田部城(ヤタベジョウ)とともに同氏の中核の城であった。谷田部と足高と牛久の三角形の盾が、岡見氏の強固な防御態勢である。このため最前線の谷田部城には岡見氏一族の岡見主殿が入城して、岡見氏の命運を託したのであろう。 戦国末期に北関東一の戦国大名となった「佐竹氏(サタケシ)」と小田原城を拠点に関東の中心部を席巻した「後北条氏(ゴホウジョウシ)」とが関東の覇権を競った最前線が当地である。そして、この対立軸の代理者となったのが、多賀谷氏と岡見氏である。 【岡見氏】(オカミシ)は、筑波の小田氏から分流し、戦国時代に牛久城を本拠地として常陸国河内郡を支配。小田氏が没落してからは小田原の後北条氏と同盟し、多賀谷氏と戦ってきた。そして、天正18(1590)年に豊臣秀吉の関東攻めで、岡見氏は後北条氏の滅亡により牛久城を去った。 【岡見城】は、室町時代から戦国時代に活躍した岡見氏の城で、小野川に面した岡見の台地(茨城県牛久市市岡見町1579)に築城され南北朝時代から戦国時代まで使われ、土塁や空堀の跡が残っている。「岡見氏」は、南北朝時代にこの地に城を築き、岡見の地名を名乗るようになったと言い伝えられている。ところで、岡見氏が、居城を岡見城から牛久城に移したのは如何なる理由によるものなのだろうか?。多賀谷氏の岡見氏領地への進入経路が、多賀谷城が鬼怒川と小貝川に立地することから当地の西方向が想定されたのかもしれない。その後の岡見城については詳らかではないが、小田原征伐の際に廃城になったものと考えられる。 【所在地】は、茨城県牛久市城中町(〒300-1223)である。 【築造】は、佐竹氏の南進に伴い城主の岡見氏によって天文後半(1550年頃)に行われた。築造に当たっては、後北条氏の技術を活用された。 【足高城】(アダカジョウ)は、岡見氏領地統治の中心である「牛久城」との連携による岡見氏の繁栄のシンボルであったが、城中八幡神社の境内地(茨城県つくばみらい市城中808)とされている。城中八幡神社の南東にある城中公民館の敷地内には土塁跡がある。この土塁跡は,方墳のような形状でぽつんと残されているが,これは駐車場敷地等の造成の結果であり、本来は主郭を区画する長い土塁だったようだ。また,城中八幡神社の参道脇には堀跡がある。かつての城跡が現役の城であった頃は、一の郭から堀へ、そして船着き場が設けられて、岡見氏の主城である牛久城への水運が稼働していたのだろう。 【谷田部城】は、つくば市谷田部に立地する「八幡宮」(茨城県つくば市谷田部3025)が小字二の丸にあることから、ここを含む地域にあったのでないだろうか?。 拠点を岡見城から牛久城に移す以前の確かな足跡は、永禄期(1558年~1570年)に岡見氏の惣領的な立場であった「岡見治資(オカミハルスケ)」が谷田部城城主であったことが『小田氏治味方地利覚書』に記載がある程度である。 「多賀谷政経(タガヤマサツネ)」が、元亀2(1571)年に谷田部城を攻め落とし、弟の「多賀谷経伯(タガヤツネノリ)」にこれを守らせた。 天正8(1580)年に北条氏邦・氏照の兵3000騎が、牛久城主岡見治部治広と共に谷田部城を回復しようと出動した。多賀谷経伯が下妻に急報すると、子の経明が真っ先に馳けつけて来て、斬り合っている。これをみた経伯は急ぎ城内に助け入れたが、勇ましくも出撃してともに戦死を遂げた。 城兵は恐怖に陥ったが、面井館(高谷大膳家堀之内現存)に居た「多賀谷重経(タガヤシゲツネ)」が切歯扼腕して来援し、南方勢(北条・岡見連合軍)を惨敗させ500有余をたおした。 【惣構え】牛久城は東西約800m、南北約1kmに及ぶ城中全体を取り囲んだ惣構えをもっている。三方を牛久沼に囲まれた台地の上にあり、主郭を中心として中城と外郭の外郭部を取り囲む防禦線が築かれている。城のある台地は浸食谷によっていくつかの舌状台地になっており、城の東と西に牛久沼の水が入り込んでいて防御に適している。更に外部と連絡するのは北側の台地上を行くしかないのであるが、その台地がかなり細くなっているため、ここを切断すると台地全体が独立し、さらに防御が楽であったことが分かっている。 足高城も、主郭部は城中八幡神社付近であるが、土塁や堀がこの北部にも存在し、瑞源寺、さらに北の千手院付近にも城郭の遺構が存在する。千手院の裏には大手橋が古図に描かれているようだ。また、谷田部城は八幡宮周辺であると思われるが、この北方に「谷田部大濠」なる史跡が存在する。これは、「福田坪地蔵尊」の北側に西谷田川の水田地帯の溜め池から同尊の北側を抜けて谷田川の水田地帯の手前までに想定される。両城の状況を解釈すれば、惣構えの外郭線を形成したものと考える。この歴史的背景は、「鉄砲」の普及ではないかと推測する。 多賀谷重経は1000挺もの鉄砲隊を保有しており、関東では佐竹氏の鉄砲隊と並ぶ規模である。このことは、多賀谷氏の居城がある下妻という県西地域には、親鸞聖人旧跡である「小島草庵」や「稲田御坊」が存在することで、鉄砲集団の根来衆や雑賀衆を抱えた本願寺との繋がりを有する地域性があるかもしれない!。 【香取海】が牛久城跡の際まで押し寄せていたのかもしれない。同城内の複雑な舌状台地が形成されるには相当の反復及び水量を要すると思われる。同城の東西を流れる谷田川や根古屋川の南北の単調な流れではそれは無理なのではないか?。それを可能とするのは、何度かの海進及び連続する波並びに潮の干満などに因ると考える。このことを裏付ける事象として当地を存する利根川沿いの茨城県南部には竹の群生が見られることである。竹は南方の植物であり、これをもたらしたのが香取海と判断するからである。 【接道】は、北からは県1590右手に特別養護老人ホーム施設が見えるので、先に進むと右手に「市営駐車場」が見えてくる。牛久城跡へはここからさらに先に進むと、左側に小さい案内標示が見えてくる。これに従い左折すると城内の中心部に入り、城跡の中心線となる。 南からは国道6号線で同線バイパスの南の分岐点信号の一つ手前の変則の交差点を西に進み、根古屋橋を渡り道なりに進むと根古屋集落に入り、さらにさらに進むと右手に前述の案内標示が右側に見えてくる。 【駐車場】は、先程の市営駐車場(牛久市城中町119-3)が基本である。駐車台数は、約20台である。 【トイレ】は、未整備と思われるので、ここに来るまでにコンビニ等で用を済ませてくるのがベストである。(訪問日令和...

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かつて牛久沼に突き出た半島の台地に岡見氏が築城したお城です。大手門から主郭部まで1キロ近くあり、大手門脇に総構堀が現存。城中町内部にも土塁や空堀の遺構が残ります。

子供の頃、当時は竹藪の中に埋もれており一度中に入ると出られなくなりそうな怖さがありました。近年は手入れが行き届いており藪こぎしなくても当時の遺構が確認出来ます。 主郭部は本丸、二の丸、三の丸、腰郭があり郭は空堀によって区切られていて土橋がかけられています。 郭を取り巻く空堀は横矢掛け、畝状の堀内土塁も見られ堀底を歩く事も可能で北条流築城術の素晴らしさを観ることが出来ます。 牛久城登城の際には得月院にも寄るのもオススメです。 岡見氏が北条氏に付き、小田原征伐後に由良氏が入りました。 その由良氏初代当主、由良国繁の母に縁のあるお寺でもあります。 その得月院裏の空堀は総構空堀と二重空堀になり武者走りの様な広さもありました。

牛久城の周りにも東林寺城、遠山城など埋もれたお城があるのでそちらもオススメです。 最近大手門前に牛久土浦6号バイパスが開通し、大手門前の交差点がちょっと危ないです。 駐車場は大手門側から入ると得月院、牛久城の南部には市営の無料駐車場があります。 私有地内部の遺構もありますので登城の際には気をつけましょう。 地主様も世話好きな方も多く昔の話や敷地内の遺構を見せて下さる方も多いです。 城北側に無料の市営駐車場があり、ヘルスロード「牛久沼かっぱの小径コース」にも入っているのでそれなりに人は訪れています。 定期的に散歩に来ていますがキチンと枝打ち等の手入れがされており散策しやすい城跡ですね♪ 暖かい日は虫が湧きやすく竹林なので藪蚊もワンサカ☆ 冬〜春先の頃が藪も少なく多くの遺構が...

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最近岡見城、牛久城の支城足高城址、岡見氏後に復興にあたった由良国繁公が創建に関わった瑞源寺を訪れました。その流れで、牛久城址へ。当時の強者たちへの敬意を表すため、あえて城郭内の写真は撮りませんでした。、

国道6号牛久土浦バイパス沿いから得月院前の駐車場に車を停め散策。得月院には先日お会いした由良国繁公の母君による五輪塔があり、縁を感じました。

まず、集落入り口に大手門跡があります。地元の方にうかがうと、牛久城の周辺は当時沼に囲われており、大手門に至る道のみが、外部の陸地とつながっていたそうです。他の方がお書きになっていましたが、香取海の海進があったのかもしれません。

さて、牛久城址へは、牛久沼側と、住宅地側との2方面からアクセスできます。カッパ関連の標識しかないので、駐車場にある地図かGooglemapにお世話になるしかありません。牛久城に関する案内板があるのは住宅地側、畑側からの入り口付近です。今は残念ながら、縄張り図がほぼ判別できない状態です。

私は牛久沼側からのアクセスを試みました。虫さんも結構いて、植物が覆い被さっている部分もやや不安を感じる歩道の状況でしたが、周辺の中世城郭、取手市の高井城址、坂東市の逆井城址と比較しても、空堀や構築物の跡など、圧倒的な規模を誇っています。江戸期に廃城になるまで存続した理由がわかる、頑強な造りです。筍をとっちゃダメという看板もありましたが、そんな人いるの?とびっくりしました。

極めて貴重な中世城郭跡だと思います。歴史に関心のある方は、ぜひお訪...

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