A stone near the Kirin Beer Factory marking the location of the Namamugi Incident.
There’s an explanation board in both English and Japanese that explains the significance of this incident in terms of Anglo-Japanese relations.
The British flag behind the monument is a nice touch, but considering the significance of the incident it’s a very minor and...
Read more生麦事件は1962年に薩摩藩の島津氏が公武合体の建白書を渡すため幕府を訪れ、公武合体を見届けた後、帰りの東海道中にこの生麦を歩いていたところ、乗馬で遊んでいた英国人が横切ったため、薩摩藩士が刀を振り下ろし、文化の違いから、香港の商人など3人が死亡した事件です。これが薩英戦争に繋がり、欧米の武力の高さを痛感した薩摩藩は公武合体から倒幕に傾いていき、砲弾等の技術を江戸や海外から積極的に学び、最終的には明治維新の主役へと繋がります。
公道を馬で通らないよう外国人に対して幕府は予め周知していましたが、中国人に暴力を振っていた悪名高い香港の商人は周りの耳も貸さず、「私は中国に14年もいるから、こんな奴らを扱う方法は心得ているよ」と大名行列に割り込んだので殺されたそうです。
これに対してイギリス世論の反応として、「悪いのは日本の礼儀を無視した4人だ。日本の当局者は、外国人に公道に馬を乗り入れないよう事前に通告していた。それにもかかわらず、彼らが日本の習慣を無視する行為に出たために起きたのである」と解説した新聞紙や、「この事件の原因は1858年(安政5年)に江戸幕府がイギリスとの間で締結した、日本にとって不平等な日英修好通商条約であり、日本人には何よりも強い武器である大義名分がある。もし我々が同様の侮辱を受けたとしたら、どれだけの戦費をかけても戦うであろう」と発言した下院議員がいたことを考えると、他国の文化を尊重する土台は当時からある程度あったんだなと驚きました。侵略戦争や奴隷貿易がokだった時代のはずですが、生麦事件に対する当時の反応は批判的だった世論の声を鑑みると、当時の価値観を...
Read more入口の左側をフェンスに沿って進むと近くに生麦事件ゆかりの井戸跡の位置を示す小さな石碑があります。生麦事件発生現場で深傷を負ったチャールズ・レノックス・リチャードソン(Charles Lennox...
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