2023年1月21日に参拝しました。 伊達輝宗が天正13年1585年に非業の死を遂げ、伊達政宗が、翌天正14年1586年に菩提寺として米沢に建立した寺院です。天正19年1591年に岩出山に移り、1600年に仙台の愛宕山へ、そして、1601年に現在の北山に移転しました。江戸で伊達政宗が寛永13年1636年に亡くなり、ご遺体は、ここ覚範寺に移され、葬儀が行われました。 伊達政宗の三男の伊達宗清(黒川城主、寛永11年1634年死去、享年35歳。墓所では、正面左の「空」の字が刻まれた大きな墓)や母の保春院(義子、義姫)のお墓があることでも有名です。 伊達政宗の母である保春院について触れておきます。山形城主最上義守の娘であり、最上義光(よしあき)の2歳下の妹に当たります。永禄7年1564年頃に米沢城主伊達輝宗のもとに正室として嫁ぎました。完全な政略結婚だったそうです。永禄10年1567年に政宗、永禄11年1568年に次男の小次郎を産みました。天正12年1584年に輝宗が隠居し、家督を政宗が継ぎました。天正13年1585年に輝宗が畠山義継に誘拐され、人質にされます。伊達政宗の父親奪回は、義継を自害に追いやりましたが、父親も助かりませんでした。天正16年1588年の大崎合戦では、保春院が最上氏と伊達氏の仲裁に入り、和議を成立させています。天正18年1590年に次男小次郎を当主にしようと政宗を毒殺しようとしましたが、失敗しました。小次郎は、政宗に成敗されています。保春院は、実家の山形へ帰されました。最上氏が改易されたため、伊達政宗は、母保春院を仙台城に迎え入れています。元和9年1623年に政宗に看取られて、享年76...
Read more伊達輝宗公(政宗父)菩提寺で、政宗公の母の墓所でもあります。どうして(政宗の)弟の小次郎を溺愛するあまり、政宗を毒殺しようとした母親のお墓が此処にあるかとても興味深いです。 一説には秀吉の小田原の北条征伐の時期、伊達家の家臣が政宗派閥と小次郎派閥に分裂中だったとあります。その状態で政宗が小田原に参戦すると伊達家の内紛が表面化しかね無い状態だった為、政宗、母の保春院、小次郎とで毒殺事件と小次郎手打ちの一計をでっち上げ、母は最上家へ、弟は出家させて地方へ出したとあります。それから伊達家の家臣をまとめた上での小田原参陣になった為、結果的に遅れたとか。 もしかすると白装束で秀吉の前に現れた時も、遅れた言い訳に毒殺事件と弟手打ちした件をネタに使ったかも知れないですね。 それなら母が亡くなった後、仙台で菩提を弔ったっていうのもありかも。 2024年4月10日時点で桜が満開でした。御朱印も丁寧に対応して...
Read more宮城県にある覚範寺は、伊達政宗が父・輝宗の菩提を弔うために創建した寺院です。もともとは出羽国遠山村に創建され、後に伊達政宗の岩出山移封に伴い、現在の場所に移転しました。 覚範寺と伊達政宗との具体的な関係 ⦿創建 1586年、伊達政宗が父・輝宗の菩提寺として出羽国遠山村に創建しました。 ⦿開山 虎哉宗乙を開山としました。 ⦿移転 1591年、政宗の陸奥国岩出山への移封に伴い現在の場所に移転しました。 ⦿伊達家ゆかり 覚範寺は、伊達家ゆかりの臨済宗寺院として、現在も宮城県仙台市青葉区北山にあります。 つまり、覚範寺は伊達政宗が父の菩提を弔うために創建し、その後伊達家の歴史とと...
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