高野山真言宗のお寺で禅馬山三郷院(別の院号:不動院・密巌院)真照寺といいます、御本尊は阿弥陀如来(三尊形式)です。 横浜三十三観音霊場の第二十三番札所になりますが、観音霊場御本尊(御朱印)の対応はしていないようです。 真照寺の開山と開基については不詳です平安時代末期の寿永元年(1182年)に、禅馬郷(磯子の旧称)の領主である平子有長公によって再興されました。 平子有長公は源頼朝の陣屋警護の任務についていて曾我祐成と切り結び負傷したが、重傷を負いながらも生還できたのは日頃から信仰する毘沙門天の御加護と喜び、真照寺に自身の持仏の檜の一木造り像高五尺三寸玉眼入りの毘沙門天像を奉納したとされます。 江戸時代には徳川幕府から朱印寺として特別な祈願をする寺と認められていたといいます、寺は慶安二年(1649年)以前より寺領四石九斗の御朱印状を拝領していたといい、明治維新までは海岸にあった稲荷大明神と岡村にあった御嶽権現ね別当を兼帯していた。 真照寺は古来石川の寳生寺に属していたが明治七年(1874年)に元町の増徳院に転属した、その後の大正十五年(1926年)に高野山金剛...
Read more禅馬山三郷院真照寺 高野山真言宗 この御寺は磯子城址の麓に位置する。 源頼朝公を曽我兄弟による暗殺の危機から救った勇将、平子有長公が開いた寺院。 有長公由来の文物を今に守り伝える他、頼朝公とゆかり深い三島大社の御分霊が境内社に奉られている。 寺院前の道路は付近の笹堀の地名由来に成った長大な堀の跡だが今は埋め立てられ道路化している。 徒歩少し離れた場所に平子家の供養塔が残る。 平子家は戦国時代に北条家に服属し後に離反し磯子の地域から追われた。
戦国時代まで磯子と言う地名は無く、古くは禅馬郷と呼ばれた。その旧地名が真照寺の山号の由来。 平子家は堀之内の寳生寺等にも関わり有る他、分家の石川家が山手や元町一帯を支配していた事から、院号の三郷院は平子家が治めた所領の郷数に由来するのかも知れない。
戦国時代には岡郷と地名を変え平子家の退転後は吉良氏、吉良氏の土地を北条綱成公与力の行方氏が買い取った様だ。 更に安土桃山時代から現在に至る大旦那は伊東一族なので、小田原北条家末期には付近は伊東政世公の一族...
Read more鎌倉幕府御家人の平子(たいらこ)有長が創建し、その居館跡と伝わる。平子氏の出自については相模三浦氏流と武蔵横山党の2説があるが、室町時代前期成立の「武蔵七党系図」を根拠とした横山党説が正しいと思う。三浦氏流説はずっと後の系図で確認されるのみで、根拠がやや希薄である。三浦氏は桓武平氏と称しているから、「平子」=平家の子孫という意味で三浦氏に系譜をつなげたのではないだろうか。平子氏は平安時代後期から武蔵国久良岐郡平子郷(横浜市中区、磯子区、南区)を領有していたとされる名族で、鎌倉時代には越後や周防にも庶流が所領を得ている。平子氏の嫡流は室町時代中期には活動の記録は見られなくなるが、庶流の越後平子氏は長尾氏(後の上杉氏)に仕えていて、戦国時代の...
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