The temple is nothing special, but if you walk the path headind to the mountain through the wild nature for 5-10 minutes you can reach the tomb raised by Hijikata Toshizo for Shinsengumi's captain Kondo Isami. Recommended only to Shinsengumi's hard fans. The path may be slippery. Be...
Read more文安4年(1447年)会津を最初に治めていた蘆名氏の蘆名盛信が陸奥国会津黒川の東山に開いた会津曹洞宗の本部にあたる寺で末寺33、僧堂12、かつては修行僧の雲水が1000人も居た大寺院でした。蘆名亀王丸が死去し、蘆名氏の血統が絶え、佐竹義重の次男兼広が蘆名盛隆の娘婿になり、蘆名義広となる。摺上原の戦いにて伊達政宗公の軍に大敗を喫し会津黒川を追われた。天寧寺もその時に焼失している。
その後兄、佐竹義宣を頼り常陸国(現在の茨城県)水戸へ逃れ、常陸国江戸崎45000石を領し蘆名盛重と名を改め、関ヶ原の戦いの後は佐竹義重、義宣親子と一緒に秋田(久保田)へ行き、新たに名を義勝に改め角館に16000石を領有し、角館で山号、寺号そのままで天寧寺を創建し菩提寺とする。
会津はその後、蒲生、上杉、加藤、松平と入ったため蘆名盛重は二度と会津に帰ってくることは無かったため、寺の周辺に住む人々の尽力によって維持、管理され現在に至る。
境内裏の山にあるお墓の中に戊辰戦争で破れ討ち首になった新選組局長、近藤勇の墓があり新選組副長の土方歳三が体の一部を天寧寺の墓に葬ったとされている。
アクセス JR磐越西線、只見線、会津若松駅から、市内観光循環バス、あかべえとハイカラさんを利用して奴郎ケ前下車徒歩5分。 本殿には階段で行けますが、急階段はキツイという方は、そのまま道路を上がって行ってください。
駐車場あり階段横に参拝者...
Read more甲陽鎮撫隊(新撰組)は、甲州柏尾の激戦で奇しくも敗退し、千葉県流山で陣を引き、新たな隊員を募り、立て直しを図っていたという
そこへ、探索していた新政府軍が現れ、形勢不利とみた近藤勇は、義勇軍の大久保大和と偽名を名乗り、回避しようと画策した
しかし、新政府軍の隊員に、油小路事件の生き残りがおり、近藤勇と看破されてしまい、捕縛される
(呆気なく捕縛されてしまったのは、墨染事件で狙撃されていた近藤勇の銃創が、まだ癒えていなかったからとも云われている)
当初、近藤勇の身柄を京へ護送する予定だった
しかし、京への護送中に、幕府軍による襲撃が予想され、相当の被害を受けて、近藤勇を奪還される恐れがあった
この為、新政府軍は、板橋の一里塚付近の刑場で近藤勇を斬首する事にした
(刑場近くに、長倉新八が発起人となって建立した新撰組隊員慰霊碑が刑場近くにあり、ここが近藤勇の胴塚という話しがある)
近藤勇は新撰組の首領として、最後まで騒ぐ事なく、淡々としていたという
(近藤勇は農民の出自であるが、幕末には幕臣であり、旗本の身分を得ていた事から、本来ならば斬首は不当な処分だった)
京で検分された後、河原で梟首になっていたが、知見のあった天台宗の高僧がこれを惜しみ、密かに埋葬していたという
この首を、土方歳三から依頼を受けた侠客...
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