2024.7 【入館料】210円※現金のみ 展示は武甲山の成立ち(歴史や地質など)、植物や動物、石灰石の採集に関する展示があります。 武甲山は、秩父の神奈備(かんなび)山=神霊が鎮座する山として、山の自然の神代(かみしろ)として、里人をはじめ多くの人々の信仰の対象となっています。 武甲山の歴史をたどってみると、現在の「武甲山」と呼ばれるようになるまでに、いくつかの山名が移り変わっていることは興味深いと感じました。 古い時代、まだ言葉のみ用いて文字を持つにいたらなかった頃には「たけ」・「たけやま」と呼ばれ、 第10代崇人天皇の時代(古墳時代)に、知知夫彦命が知知夫の国造に任命され、知知夫国時代へ入った時点で「知々夫ヶ嶽」と呼ばれるようになります。 大宝律令が制定(701年)されて、武蔵国初代の国司として赴任した人物が引田朝臣祖父です。この名前が冠せられて「祖父ヶ嶽(おおじがだけ)」、 平安時代、山麓地域に武光庄という荘園が成立。武光とは荘園の開発者名であったのでしょう。これによって「武光山」と呼ばれるようになります。 1235年秩父神社は落雷により炎上。これ以降同社に妙見大菩薩が合祀されます。これにより神体山の名称も「武光山」から「妙見山」へと変化しました。 現在では、日本武尊が登山されて武具・甲冑を岩蔵に納め、東征の成功を祈ったところから山名が「武甲山」になったという伝説が元禄時代の頃から秩父の人々に伝承され定着しています。 古代から呼び名は変わっていますが、ずっと秩父を象徴し、信仰を集める山だと分かりま...
Read more武甲山資料館について
〈資料館設立趣意〉 崇神天皇の御代、 知知夫国の祖神であった、 知知夫彦命の霊を、武甲山に奉祀して以来今日まで、 神奈備山 (神様のこもる山)として山麓の人々に崇められて参りました。 信仰の山としての山塊である ばかりではなく、 自然科学から見ても、地質、動物、植物など、 秩父 の山塊のうち、他にその類を見ない貴重な存在でした。 北面及び頂上の石灰岩採掘によって山容は変貌し、自然科学としての価値も消失して行きます。 今ここに失なわれて行く資料を蒐集し、当時の武甲山の全貌を後世に伝えるために、資料館を設立いたしました。
〈武甲山資料館建設の経緯〉 この資料館は、秩父盆地のシンボル武甲山が、 石灰石採 掘によって変容するので、採掘前の武甲山の姿と、そこに生息する動物, 植物等の歴史的資料を展示し、それを後世に伝えるために、 秩父自然保護委員会・清水武甲会長の提案により、 昭和51年4月、 秩父市、横瀬村、秩父自然保護委員会、セメント関係企業3社によって、 武甲山資料保存会を設立すると共に、 その内容については、 資料館建設準備室において検討を加えてまいりました。 その結果、動物、 植物、 地質コーナー及び、 石灰石の利用等の産業コーナーを始めとした武甲山の過去、現在、 未来を含めたあらゆる姿を網羅した資料館が、 秩父セメ ント株式会社、三菱鉱業セメント株式会社、 武甲鉱業株式会社によって当地に建設され、 それを秩父市に寄附、...
Read more秩父市に来たらイヤでも目に入る、山頂をピラミッドのように三角に削られ、段々になった斜面を持つ「異形」の山、武甲山。誰だって「何でこんなカタチに??」と思うでしょう。その疑問に答えてくれる施設です。
武甲山は古代より巨大で特徴的な荒々しい山容により、神宿る山「神奈備山」として崇拝されており、山頂にはかつて神社社殿が存在し、縄文時代からの祭祀遺跡もありました。
その神宿る山が、なんでこうなったかと言うと秩父市から見たら南側、武甲山の北側半分は不純物の少ない良質な石灰岩で出来ていたからです。セメントの主な需要先である首都圏に近く輸送コストも節約できるので、大正時代から開発が始まります。 それでも神霊が鎮座し、人々の信仰の対象であった山頂部を破壊するのは「畏れ」があったのか、開発は周辺から進み手がつけられていなかったのですが、ついに1980年代に爆破され同時に標高も30m以上も下がってしまいました。
人々の「欲望」の猛々しさの前には、残念ながら神の力は無力でした。採掘会社はEVAじゃありませんが「神殺し」の原罪を背負うことになったのです。 その僅かな贖罪として採掘会社がつくったのが、この資料館な訳です。ここから掘り出された石灰岩がいかに国土建設に役立ってきたかを紹介するコーナーが、「なるほど...
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