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Ubayama Shell Mound Park — Attraction in Ichikawa

Name
Ubayama Shell Mound Park
Description
The Ubayama Shell Mound is an archaeological site in the Kashiwai neighborhood of the city of Ichikawa, Chiba Prefecture, in the Kantō region of Japan, containing a mid-to-late Jōmon period shell midden, designated a National Historic Site of Japan in 1967.
Nearby attractions
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Sushi Shichibee
1 Chome-1461-8 Kashiwaimachi, Ichikawa, Chiba 272-0802, Japan
果実問屋にしかわ 船橋法典店
Japan, 〒273-0047 Chiba, Funabashi, Fujiwara, 2 Chome−17−18 Y′Sコート 102
Daifukumoto Funabashihotenten
Japan, 〒273-0046 Chiba, Funabashi, Kamiyamacho, 1 Chome−1−94-1 シャトー・さつきビル 303
Edoichi
1 Chome-246 Kamiyamacho, Funabashi, Chiba 273-0046, Japan
Anrakutei
1 Chome-106-1 Kamiyamacho, Funabashi, Chiba 273-0046, Japan
Yakinikusuehirokan Ichikawanakayamaten
4 Chome-1828-3 Bokkemachi, Ichikawa, Chiba 272-0811, Japan
McDonald's Kitakata-cho Branch
4 Chome-1463-3 Bokkemachi, Ichikawa, Chiba 272-0811, Japan
Yanagi Sushi
2-300 Kamiyamacho, Funabashi, Chiba 273-0046, Japan
Jolly Pasta
4 Chome-2239-5 Bokkemachi, Ichikawa, Chiba 272-0811, Japan
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Keywords
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Ubayama Shell Mound Park
JapanChiba PrefectureIchikawaUbayama Shell Mound Park

Basic Info

Ubayama Shell Mound Park

1 Chome-1235 Kashiwaimachi, Ichikawa, Chiba 272-0802, Japan
3.8(122)
Open 24 hours
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spot

Ratings & Description

Info

The Ubayama Shell Mound is an archaeological site in the Kashiwai neighborhood of the city of Ichikawa, Chiba Prefecture, in the Kantō region of Japan, containing a mid-to-late Jōmon period shell midden, designated a National Historic Site of Japan in 1967.

Cultural
Outdoor
Scenic
Pet friendly
Family friendly
Off the beaten path
attractions: , restaurants: Sushi Shichibee, 果実問屋にしかわ 船橋法典店, Daifukumoto Funabashihotenten, Edoichi, Anrakutei, Yakinikusuehirokan Ichikawanakayamaten, McDonald's Kitakata-cho Branch, Yanagi Sushi, Jolly Pasta
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4.1

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4.3

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3.9

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4.2

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Reviews of Ubayama Shell Mound Park

3.8
(122)
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5.0
5y

船橋法典駅から徒歩10分位、坂道を登った高台にあります。広さは2.5ヘクタールとかなり大きな公園になっています。公園にはトイレ、水飲み場、ベンチがあります。また5台分の駐車場がありますが、令和2年3月31日に閉鎖となりますとお知らせの掲示板がありました。 公園内には発掘調査した地点に掲示板が設置され、次のように説明されています。 【国指定史跡 姥山貝塚は、下総台地の西端、大柏川の流れる大柏谷から、東方に向かって入りこむ樹枝状谷の一つ、向根支谷の北側に位置し、標高2325m を測ります。この貝塚は、中央部が窪み、南を除く周囲が土手状に高まった地形をしています。貝層は、この土手状の高まりにあり、C 字形をしているので、馬蹄形貝塚とよばれています。貝層の規模は、外径が東西130m 、南北120m を測ります。貝の種類としては、ハマグリが主体で他にアサリ・サルボウ・シオフキ・ハイガイ・マガキなど30種類以上もの貝が採集されました。この貝塚の調査は、明治26年1月の八木奘三郎氏による発掘が、最初の記録として残され、以降昭和37年5月まで、数多くの調査が行われました。この結果、縄文時代中期に主に属する竪穴住居が39軒、人骨は143体も発見されました。特にこの貝塚が注目されることは、日本でははじめて、縄文時代の家が炉と柱をもつ竪穴住居であることが、確実にわかったことです。また、1軒の竪穴住居の床に、5体の人骨が発見され人員構成や家族の問題を考えるうえで、重要な資料となりました。なお、人骨が143体も出て来たのは、日本で第3番目に多く、縄文人の形質を研究する上で非常に貢献しました。この結果、国の史跡に指定され、全域を公有化しました。 昭和五十七年二月 市川市教育委員会】 【「A 地点」 大正15年5月9日、東京人類学会の遠足会が姥山貝塚で実施され、発掘が行われました。当時の発掘は、貝層までで発掘を打ち切っていましたが、人類学教室班が貝層下の土層を約30cm 掘り下げたところ、炉と人骨1体が発見され、人々の注目を集めました。そこで、東京帝国大学(現・東京大学)人類学教室の事業として継続調査することになり、5月13日から6月28日まで、宮坂光次氏を担当者として発掘し、また、第2期調査を8月27日から9月27日まで行いました。調査の結果、住居跡14軒、人骨9体(うち小児2体)、土器棺2基(小児もしくは胎児)、小竪穴3基などが発見されました。住居跡の多くは、ローム層を掘り込んだ竪穴式で、いずれの竪穴住居も、まず黒褐色土でおおわれ、完全に埋まりきらない窪みにレンズ状の貝層がみられました。人骨は、住居跡の上方、貝層下の土層や貝層上の土層で発見されました。これらの住居跡、人骨・貝層などは、縄文時代中期後葉の加曽利E ⅠⅡ期(約4,500年前)のものとみられます。この調査で注目されるのは、それまで縄文時代の住居は、地面を掘りこんだ竪穴住居であろうと考えられていましたが、この推定を、炉や柱を有する竪穴住居という確実な証拠をもって証明したことです。】 【「B地点」大正15年(1926)7月21日スウェーデンのグスタフ・アドルフ皇太子(元国王・故人)の来日の歓待行事の1つとして、姥山貝塚の見学が計画されたため、A 地点の拡張とA 地点の西北約40m の所に、新たにB 地点を設定しました。発掘調査は、東京帝国大学(現・東京大学)の八幡一朗氏を担当者とし、A 地点第2期調査と同じ8月27日に開始され、9月21日まで実施されました。9月15日には、予定通りスウェーデン皇太子が来跡され、見学と発掘をおこないました。調査の結果、竪穴住居跡5軒(うち2軒を完掘)、小竪穴2基、人骨2体が発見されました。完掘した竪穴住居跡は、共に隅丸方形プランで4本柱、土器を埋設した炉、南壁下の埋甕などの点で共通しています。貝層は平らで広く堆積し、竪穴住居跡の覆土では、レンズ状の堆積をしていました。貝層中から縄文時代中期後葉の加曽利E 式土器(約4,500年前)、貝層下土層から中期後葉の阿玉台式や勝坂式土器(約4,600年前)が出土したということですが、竪穴住居・小竪穴・人骨も中期後半の加曽利E 期に属するようです。発見した2体の人骨は、ともに屈葬で、竪穴住居跡と小竪穴の覆土から発見されました。このうち、小竪穴上の1体は、頭の左側に切断された鹿角1本が副葬され、土をかぶせた後、腹部上方で火を焚いた跡のあることが注目されます。】【「接続溝」B 地点の調査が終了した大正15年(1926)9月21日、発掘を継続しているA 地点との関係をみるために、B 地点南区東壁中央から、幅2m のトレンチをいれました。このトレンチは「接続溝」と名付けられ、東京帝国大学(現・東京大学)の八幡一朗氏が調査を担当しました。トレンチの長さは、14m に達しましたが、約3m を残してA 地点と完全に接続することなく、10月5日に調査は終了しました。接続溝では、A 地点に近い位置で竪穴住居跡1軒が発見されました。長径4m 、短径3.5m の楕円形プランでローム層の掘り込みは、6575cm という深いものでした。柱穴は4本あり、中央に下半分を欠いた縄文時代中期中葉の勝坂式土器(約4,400年前)を埋めた炉がありました。この竪穴住居の床面から、成人男性2人、成人女性2人、子供1人の5人の人骨が発見されました。この5人については、かつて野たれ死にしたものとみられていましたが、現在では姿勢を整え、配置した埋葬と考える意見が支持されています。成人女性2人は、イタボガキという貝の腕輪を腕にはめていました。この5人を兄弟・姉妹・夫婦・親子などの関係にある近親者と考え、複数人が同時に死亡したために(1人は後で追加)、死者に家を明け渡し、一緒に埋葬したとする意見があり、支持されていますが、決着はついていません。】     【「C 地点」 昭和15年(1940)2月から1ヵ月間、ジェラード・グロード氏とヘンリー・シェニッグ氏は、A 地点の南に、面積約140m2 の発掘区を設け発掘しました。発掘を開始した北側の地点の貝層はやや薄く、南端に近づくと貝層が厚く残り、所によって約1m を測ることができ、加えて、大量の復元可能な土器などが含まれていました。また、貝層下の黒色土層からも土器が発見されたということです。地表はほぼ水平であったが、基盤のローム層は傾斜していたということです。また、住居跡などの遺構は発見されず、ただ捨てる場所としてのみ使用されたのであろうといわれています。ただし、貝層中の所々には、灰や焼土、少量の炭、焼けた貝殻、魚骨が発見されており、ここで野外料理や焚火をしたのであろうとも考えられています。報告書によると、この地点出土の完形ないし半完形土器は、40個体近くに達しています。時期は、縄文時代中期中葉(約4,8004,400年前)の阿玉台式と勝坂式の新しい時期に含まれる土器と中期後葉(約4,300年前)の加曽利E Ⅰ式土器に限られるようです。多くは、深鉢や甕形土器で、浅鉢形などの煮炊き以外の器形の土器は、わずかでした。このうち、鍔付有孔土器が1点含まれており、中部山岳地方で発達した文化の影響が、市川にも及んでいたことを物語っています。】 【「D 地点」昭和23年(1948)9月6日、ラルフ・ブラウン氏の依頼を受け、東京大学の酒詰仲男氏が中心となり、D 地点での調査が始まりました。9月28日までに終了する予定でしたが、アジア協会とオランダ伝道団の後援により日本考古学研究所のジェラード・グロード氏を代表とする調査団が、調査を継続し、12月27日まで実施されました。D 地点は、かなり下まで撹乱されていて、撹乱を受けた混土貝層からは、主に後期中葉(約3,600年前)の加曽利B 式土器が、下部の保存良好な混土貝層からは、後期前葉(約4,000年前)の堀之内式土器が出土しました。3層に重なった3基の堀之内式土器片によって築かれた炉跡、火災にあった住居跡(垂直の位置で焼けた柱2本、柱を四角に組んだ梁と桁、焼けた竹の敷物など)、厚い灰の床、同一の高さにある2基の縄文時代中期末葉(約4,200年前)の加曽利E Ⅲ式土器片によって築かれた炉跡というように、かなり住居跡が重複していましたが、1つとして平面形のはっきりした竪穴はありませんでした。この他、3基の小竪穴があり、中期後葉(約4,500年前)に属するようです。人骨は少なくとも25体に達しているということです。大部分は、死体がはいる程の穴をロームに掘り込み、ほとんど仰臥伸展葬(屈葬は12体)で葬っていました。その方向は、だいたい馬蹄形状の土手の稜線と一致しているということです。後期前葉の人骨と思われます。】 【「E 地点」 昭和24年(1949)3月から4月10日までの間、東京大学人類学教室では、D 地点の東に接続した発掘区を設け、再び発掘を開始しました。面積約90m2 です。この時の調査記録の公表は全くされていませんが、東京大学の人骨型録によると、個体骨格を残す人骨10体、その他6体分の部分骨が登録されています。おそらく、縄文時代中期後葉(約4,3004,000年前)に盛んに行われた、竪穴住居跡の覆土を意識した廃屋葬ではなく、D 地点と同様に、ローム層を掘り込んで死者を埋葬する、ごく普通の葬法がとられたらしく、縄文時代後期に一般的なあり方を示しています。東京大学人類学教室では、昭和25年(1950)8月2日から14日まで、再び姥山貝塚の発掘を実施しました。E...

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元々は国が指定した史跡の姥山貝塚を中心に、遊歩道やベンチなどを設置して公園にしたという事なんですかね。

今回はバス通りにある史跡の入口から入園しましたが、手すりがあるとはいえ上りの階段が中々大変でしたね。グーグルマップ上だとその階段は表示されないため、マップを頼りに初見で訪れる方は細い道をぐるりと回って行く事になるのかな。バス停の近くに入口を示す看板があるので、参考にしてみて下さい。

遊具などは何も無く、舗装された遊歩道と屋根付きの休憩スペースにベンチがあり、公衆トイレと水道もありました。天気の良い日にはウォーキングを楽しむ利用者が大勢訪...

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1.0
27w

老人とドッグランに特化した公園。遊具は無く、ボール遊びも禁止。野球サッカーといったボール遊び禁止、柔らかいボールはOKの新しい看板もあるが外見でボールが硬いかどうか分からず基準も無い。100%老人と犬を散歩する人々に怒鳴られるので子供は近寄らせないのが無難。 ドッグランとしては有名なようで、わざわざ車で来て犬を散歩させる人で常に公園前は車が路駐されている。リードを付ければOKというルールを逆手に取って、数十メートルのリードを付けて、実質ドッグランをさせている。 市川市は老人中心の市政なので...

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MitsuhiroMitsuhiro
船橋法典駅から徒歩10分位、坂道を登った高台にあります。広さは2.5ヘクタールとかなり大きな公園になっています。公園にはトイレ、水飲み場、ベンチがあります。また5台分の駐車場がありますが、令和2年3月31日に閉鎖となりますとお知らせの掲示板がありました。 公園内には発掘調査した地点に掲示板が設置され、次のように説明されています。 【国指定史跡 姥山貝塚は、下総台地の西端、大柏川の流れる大柏谷から、東方に向かって入りこむ樹枝状谷の一つ、向根支谷の北側に位置し、標高23~25m を測ります。この貝塚は、中央部が窪み、南を除く周囲が土手状に高まった地形をしています。貝層は、この土手状の高まりにあり、C 字形をしているので、馬蹄形貝塚とよばれています。貝層の規模は、外径が東西130m 、南北120m を測ります。貝の種類としては、ハマグリが主体で他にアサリ・サルボウ・シオフキ・ハイガイ・マガキなど30種類以上もの貝が採集されました。この貝塚の調査は、明治26年1月の八木奘三郎氏による発掘が、最初の記録として残され、以降昭和37年5月まで、数多くの調査が行われました。この結果、縄文時代中期に主に属する竪穴住居が39軒、人骨は143体も発見されました。特にこの貝塚が注目されることは、日本でははじめて、縄文時代の家が炉と柱をもつ竪穴住居であることが、確実にわかったことです。また、1軒の竪穴住居の床に、5体の人骨が発見され人員構成や家族の問題を考えるうえで、重要な資料となりました。なお、人骨が143体も出て来たのは、日本で第3番目に多く、縄文人の形質を研究する上で非常に貢献しました。この結果、国の史跡に指定され、全域を公有化しました。 昭和五十七年二月 市川市教育委員会】 【「A 地点」 大正15年5月9日、東京人類学会の遠足会が姥山貝塚で実施され、発掘が行われました。当時の発掘は、貝層までで発掘を打ち切っていましたが、人類学教室班が貝層下の土層を約30cm 掘り下げたところ、炉と人骨1体が発見され、人々の注目を集めました。そこで、東京帝国大学(現・東京大学)人類学教室の事業として継続調査することになり、5月13日から6月28日まで、宮坂光次氏を担当者として発掘し、また、第2期調査を8月27日から9月27日まで行いました。調査の結果、住居跡14軒、人骨9体(うち小児2体)、土器棺2基(小児もしくは胎児)、小竪穴3基などが発見されました。住居跡の多くは、ローム層を掘り込んだ竪穴式で、いずれの竪穴住居も、まず黒褐色土でおおわれ、完全に埋まりきらない窪みにレンズ状の貝層がみられました。人骨は、住居跡の上方、貝層下の土層や貝層上の土層で発見されました。これらの住居跡、人骨・貝層などは、縄文時代中期後葉の加曽利E Ⅰ~Ⅱ期(約4,500年前)のものとみられます。この調査で注目されるのは、それまで縄文時代の住居は、地面を掘りこんだ竪穴住居であろうと考えられていましたが、この推定を、炉や柱を有する竪穴住居という確実な証拠をもって証明したことです。】 【「B地点」大正15年(1926)7月21日スウェーデンのグスタフ・アドルフ皇太子(元国王・故人)の来日の歓待行事の1つとして、姥山貝塚の見学が計画されたため、A 地点の拡張とA 地点の西北約40m の所に、新たにB 地点を設定しました。発掘調査は、東京帝国大学(現・東京大学)の八幡一朗氏を担当者とし、A 地点第2期調査と同じ8月27日に開始され、9月21日まで実施されました。9月15日には、予定通りスウェーデン皇太子が来跡され、見学と発掘をおこないました。調査の結果、竪穴住居跡5軒(うち2軒を完掘)、小竪穴2基、人骨2体が発見されました。完掘した竪穴住居跡は、共に隅丸方形プランで4本柱、土器を埋設した炉、南壁下の埋甕などの点で共通しています。貝層は平らで広く堆積し、竪穴住居跡の覆土では、レンズ状の堆積をしていました。貝層中から縄文時代中期後葉の加曽利E 式土器(約4,500年前)、貝層下土層から中期後葉の阿玉台式や勝坂式土器(約4,600年前)が出土したということですが、竪穴住居・小竪穴・人骨も中期後半の加曽利E 期に属するようです。発見した2体の人骨は、ともに屈葬で、竪穴住居跡と小竪穴の覆土から発見されました。このうち、小竪穴上の1体は、頭の左側に切断された鹿角1本が副葬され、土をかぶせた後、腹部上方で火を焚いた跡のあることが注目されます。】【「接続溝」B 地点の調査が終了した大正15年(1926)9月21日、発掘を継続しているA 地点との関係をみるために、B 地点南区東壁中央から、幅2m のトレンチをいれました。このトレンチは「接続溝」と名付けられ、東京帝国大学(現・東京大学)の八幡一朗氏が調査を担当しました。トレンチの長さは、14m に達しましたが、約3m を残してA 地点と完全に接続することなく、10月5日に調査は終了しました。接続溝では、A 地点に近い位置で竪穴住居跡1軒が発見されました。長径4m 、短径3.5m の楕円形プランでローム層の掘り込みは、65~75cm という深いものでした。柱穴は4本あり、中央に下半分を欠いた縄文時代中期中葉の勝坂式土器(約4,400年前)を埋めた炉がありました。この竪穴住居の床面から、成人男性2人、成人女性2人、子供1人の5人の人骨が発見されました。この5人については、かつて野たれ死にしたものとみられていましたが、現在では姿勢を整え、配置した埋葬と考える意見が支持されています。成人女性2人は、イタボガキという貝の腕輪を腕にはめていました。この5人を兄弟・姉妹・夫婦・親子などの関係にある近親者と考え、複数人が同時に死亡したために(1人は後で追加)、死者に家を明け渡し、一緒に埋葬したとする意見があり、支持されていますが、決着はついていません。】     【「C 地点」 昭和15年(1940)2月から1ヵ月間、ジェラード・グロード氏とヘンリー・シェニッグ氏は、A 地点の南に、面積約140m2 の発掘区を設け発掘しました。発掘を開始した北側の地点の貝層はやや薄く、南端に近づくと貝層が厚く残り、所によって約1m を測ることができ、加えて、大量の復元可能な土器などが含まれていました。また、貝層下の黒色土層からも土器が発見されたということです。地表はほぼ水平であったが、基盤のローム層は傾斜していたということです。また、住居跡などの遺構は発見されず、ただ捨てる場所としてのみ使用されたのであろうといわれています。ただし、貝層中の所々には、灰や焼土、少量の炭、焼けた貝殻、魚骨が発見されており、ここで野外料理や焚火をしたのであろうとも考えられています。報告書によると、この地点出土の完形ないし半完形土器は、40個体近くに達しています。時期は、縄文時代中期中葉(約4,800~4,400年前)の阿玉台式と勝坂式の新しい時期に含まれる土器と中期後葉(約4,300年前)の加曽利E Ⅰ式土器に限られるようです。多くは、深鉢や甕形土器で、浅鉢形などの煮炊き以外の器形の土器は、わずかでした。このうち、鍔付有孔土器が1点含まれており、中部山岳地方で発達した文化の影響が、市川にも及んでいたことを物語っています。】 【「D 地点」昭和23年(1948)9月6日、ラルフ・ブラウン氏の依頼を受け、東京大学の酒詰仲男氏が中心となり、D 地点での調査が始まりました。9月28日までに終了する予定でしたが、アジア協会とオランダ伝道団の後援により日本考古学研究所のジェラード・グロード氏を代表とする調査団が、調査を継続し、12月27日まで実施されました。D 地点は、かなり下まで撹乱されていて、撹乱を受けた混土貝層からは、主に後期中葉(約3,600年前)の加曽利B 式土器が、下部の保存良好な混土貝層からは、後期前葉(約4,000年前)の堀之内式土器が出土しました。3層に重なった3基の堀之内式土器片によって築かれた炉跡、火災にあった住居跡(垂直の位置で焼けた柱2本、柱を四角に組んだ梁と桁、焼けた竹の敷物など)、厚い灰の床、同一の高さにある2基の縄文時代中期末葉(約4,200年前)の加曽利E Ⅲ式土器片によって築かれた炉跡というように、かなり住居跡が重複していましたが、1つとして平面形のはっきりした竪穴はありませんでした。この他、3基の小竪穴があり、中期後葉(約4,500年前)に属するようです。人骨は少なくとも25体に達しているということです。大部分は、死体がはいる程の穴をロームに掘り込み、ほとんど仰臥伸展葬(屈葬は1~2体)で葬っていました。その方向は、だいたい馬蹄形状の土手の稜線と一致しているということです。後期前葉の人骨と思われます。】 【「E 地点」 昭和24年(1949)3月から4月10日までの間、東京大学人類学教室では、D 地点の東に接続した発掘区を設け、再び発掘を開始しました。面積約90m2 です。この時の調査記録の公表は全くされていませんが、東京大学の人骨型録によると、個体骨格を残す人骨10体、その他6体分の部分骨が登録されています。おそらく、縄文時代中期後葉(約4,300~4,000年前)に盛んに行われた、竪穴住居跡の覆土を意識した廃屋葬ではなく、D 地点と同様に、ローム層を掘り込んで死者を埋葬する、ごく普通の葬法がとられたらしく、縄文時代後期に一般的なあり方を示しています。東京大学人類学教室では、昭和25年(1950)8月2日から14日まで、再び姥山貝塚の発掘を実施しました。E 地点の東に隣接する所です。この時の調査記録も公表されていませんが、人骨型録によると、個体骨格を残す人骨23体、幼児1体、その他最高11体分の部分骨が発見されたようです。以下略
おかゆおかゆ
元々は国が指定した史跡の姥山貝塚を中心に、遊歩道やベンチなどを設置して公園にしたという事なんですかね。 今回はバス通りにある史跡の入口から入園しましたが、手すりがあるとはいえ上りの階段が中々大変でしたね。グーグルマップ上だとその階段は表示されないため、マップを頼りに初見で訪れる方は細い道をぐるりと回って行く事になるのかな。バス停の近くに入口を示す看板があるので、参考にしてみて下さい。 遊具などは何も無く、舗装された遊歩道と屋根付きの休憩スペースにベンチがあり、公衆トイレと水道もありました。天気の良い日にはウォーキングを楽しむ利用者が大勢訪れる賑やかな公園でした。
KamonKamon
貝塚の発掘のポイントが各看板によって姥山貝塚の概要をしることができる。 が、ここで過ごす親子連れには関係ないだろう。広々とした空間に発掘したあとがわかるように区別されたエリアが道とともにある。 冬の温かい日には、外周の道をウォーキングしている人や起伏のある原っぱでおしゃべりしている親や中程にある曲りくねった道をキッズライダーやキックボードをのり遊んでいる幼児など長閑な冬の一日が眺められる。 外周にある樹木は枝振りが見事である。遠くスカイツリーが見える。 トイレあり。駐車場は今閉鎖されている。
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船橋法典駅から徒歩10分位、坂道を登った高台にあります。広さは2.5ヘクタールとかなり大きな公園になっています。公園にはトイレ、水飲み場、ベンチがあります。また5台分の駐車場がありますが、令和2年3月31日に閉鎖となりますとお知らせの掲示板がありました。 公園内には発掘調査した地点に掲示板が設置され、次のように説明されています。 【国指定史跡 姥山貝塚は、下総台地の西端、大柏川の流れる大柏谷から、東方に向かって入りこむ樹枝状谷の一つ、向根支谷の北側に位置し、標高23~25m を測ります。この貝塚は、中央部が窪み、南を除く周囲が土手状に高まった地形をしています。貝層は、この土手状の高まりにあり、C 字形をしているので、馬蹄形貝塚とよばれています。貝層の規模は、外径が東西130m 、南北120m を測ります。貝の種類としては、ハマグリが主体で他にアサリ・サルボウ・シオフキ・ハイガイ・マガキなど30種類以上もの貝が採集されました。この貝塚の調査は、明治26年1月の八木奘三郎氏による発掘が、最初の記録として残され、以降昭和37年5月まで、数多くの調査が行われました。この結果、縄文時代中期に主に属する竪穴住居が39軒、人骨は143体も発見されました。特にこの貝塚が注目されることは、日本でははじめて、縄文時代の家が炉と柱をもつ竪穴住居であることが、確実にわかったことです。また、1軒の竪穴住居の床に、5体の人骨が発見され人員構成や家族の問題を考えるうえで、重要な資料となりました。なお、人骨が143体も出て来たのは、日本で第3番目に多く、縄文人の形質を研究する上で非常に貢献しました。この結果、国の史跡に指定され、全域を公有化しました。 昭和五十七年二月 市川市教育委員会】 【「A 地点」 大正15年5月9日、東京人類学会の遠足会が姥山貝塚で実施され、発掘が行われました。当時の発掘は、貝層までで発掘を打ち切っていましたが、人類学教室班が貝層下の土層を約30cm 掘り下げたところ、炉と人骨1体が発見され、人々の注目を集めました。そこで、東京帝国大学(現・東京大学)人類学教室の事業として継続調査することになり、5月13日から6月28日まで、宮坂光次氏を担当者として発掘し、また、第2期調査を8月27日から9月27日まで行いました。調査の結果、住居跡14軒、人骨9体(うち小児2体)、土器棺2基(小児もしくは胎児)、小竪穴3基などが発見されました。住居跡の多くは、ローム層を掘り込んだ竪穴式で、いずれの竪穴住居も、まず黒褐色土でおおわれ、完全に埋まりきらない窪みにレンズ状の貝層がみられました。人骨は、住居跡の上方、貝層下の土層や貝層上の土層で発見されました。これらの住居跡、人骨・貝層などは、縄文時代中期後葉の加曽利E Ⅰ~Ⅱ期(約4,500年前)のものとみられます。この調査で注目されるのは、それまで縄文時代の住居は、地面を掘りこんだ竪穴住居であろうと考えられていましたが、この推定を、炉や柱を有する竪穴住居という確実な証拠をもって証明したことです。】 【「B地点」大正15年(1926)7月21日スウェーデンのグスタフ・アドルフ皇太子(元国王・故人)の来日の歓待行事の1つとして、姥山貝塚の見学が計画されたため、A 地点の拡張とA 地点の西北約40m の所に、新たにB 地点を設定しました。発掘調査は、東京帝国大学(現・東京大学)の八幡一朗氏を担当者とし、A 地点第2期調査と同じ8月27日に開始され、9月21日まで実施されました。9月15日には、予定通りスウェーデン皇太子が来跡され、見学と発掘をおこないました。調査の結果、竪穴住居跡5軒(うち2軒を完掘)、小竪穴2基、人骨2体が発見されました。完掘した竪穴住居跡は、共に隅丸方形プランで4本柱、土器を埋設した炉、南壁下の埋甕などの点で共通しています。貝層は平らで広く堆積し、竪穴住居跡の覆土では、レンズ状の堆積をしていました。貝層中から縄文時代中期後葉の加曽利E 式土器(約4,500年前)、貝層下土層から中期後葉の阿玉台式や勝坂式土器(約4,600年前)が出土したということですが、竪穴住居・小竪穴・人骨も中期後半の加曽利E 期に属するようです。発見した2体の人骨は、ともに屈葬で、竪穴住居跡と小竪穴の覆土から発見されました。このうち、小竪穴上の1体は、頭の左側に切断された鹿角1本が副葬され、土をかぶせた後、腹部上方で火を焚いた跡のあることが注目されます。】【「接続溝」B 地点の調査が終了した大正15年(1926)9月21日、発掘を継続しているA 地点との関係をみるために、B 地点南区東壁中央から、幅2m のトレンチをいれました。このトレンチは「接続溝」と名付けられ、東京帝国大学(現・東京大学)の八幡一朗氏が調査を担当しました。トレンチの長さは、14m に達しましたが、約3m を残してA 地点と完全に接続することなく、10月5日に調査は終了しました。接続溝では、A 地点に近い位置で竪穴住居跡1軒が発見されました。長径4m 、短径3.5m の楕円形プランでローム層の掘り込みは、65~75cm という深いものでした。柱穴は4本あり、中央に下半分を欠いた縄文時代中期中葉の勝坂式土器(約4,400年前)を埋めた炉がありました。この竪穴住居の床面から、成人男性2人、成人女性2人、子供1人の5人の人骨が発見されました。この5人については、かつて野たれ死にしたものとみられていましたが、現在では姿勢を整え、配置した埋葬と考える意見が支持されています。成人女性2人は、イタボガキという貝の腕輪を腕にはめていました。この5人を兄弟・姉妹・夫婦・親子などの関係にある近親者と考え、複数人が同時に死亡したために(1人は後で追加)、死者に家を明け渡し、一緒に埋葬したとする意見があり、支持されていますが、決着はついていません。】     【「C 地点」 昭和15年(1940)2月から1ヵ月間、ジェラード・グロード氏とヘンリー・シェニッグ氏は、A 地点の南に、面積約140m2 の発掘区を設け発掘しました。発掘を開始した北側の地点の貝層はやや薄く、南端に近づくと貝層が厚く残り、所によって約1m を測ることができ、加えて、大量の復元可能な土器などが含まれていました。また、貝層下の黒色土層からも土器が発見されたということです。地表はほぼ水平であったが、基盤のローム層は傾斜していたということです。また、住居跡などの遺構は発見されず、ただ捨てる場所としてのみ使用されたのであろうといわれています。ただし、貝層中の所々には、灰や焼土、少量の炭、焼けた貝殻、魚骨が発見されており、ここで野外料理や焚火をしたのであろうとも考えられています。報告書によると、この地点出土の完形ないし半完形土器は、40個体近くに達しています。時期は、縄文時代中期中葉(約4,800~4,400年前)の阿玉台式と勝坂式の新しい時期に含まれる土器と中期後葉(約4,300年前)の加曽利E Ⅰ式土器に限られるようです。多くは、深鉢や甕形土器で、浅鉢形などの煮炊き以外の器形の土器は、わずかでした。このうち、鍔付有孔土器が1点含まれており、中部山岳地方で発達した文化の影響が、市川にも及んでいたことを物語っています。】 【「D 地点」昭和23年(1948)9月6日、ラルフ・ブラウン氏の依頼を受け、東京大学の酒詰仲男氏が中心となり、D 地点での調査が始まりました。9月28日までに終了する予定でしたが、アジア協会とオランダ伝道団の後援により日本考古学研究所のジェラード・グロード氏を代表とする調査団が、調査を継続し、12月27日まで実施されました。D 地点は、かなり下まで撹乱されていて、撹乱を受けた混土貝層からは、主に後期中葉(約3,600年前)の加曽利B 式土器が、下部の保存良好な混土貝層からは、後期前葉(約4,000年前)の堀之内式土器が出土しました。3層に重なった3基の堀之内式土器片によって築かれた炉跡、火災にあった住居跡(垂直の位置で焼けた柱2本、柱を四角に組んだ梁と桁、焼けた竹の敷物など)、厚い灰の床、同一の高さにある2基の縄文時代中期末葉(約4,200年前)の加曽利E Ⅲ式土器片によって築かれた炉跡というように、かなり住居跡が重複していましたが、1つとして平面形のはっきりした竪穴はありませんでした。この他、3基の小竪穴があり、中期後葉(約4,500年前)に属するようです。人骨は少なくとも25体に達しているということです。大部分は、死体がはいる程の穴をロームに掘り込み、ほとんど仰臥伸展葬(屈葬は1~2体)で葬っていました。その方向は、だいたい馬蹄形状の土手の稜線と一致しているということです。後期前葉の人骨と思われます。】 【「E 地点」 昭和24年(1949)3月から4月10日までの間、東京大学人類学教室では、D 地点の東に接続した発掘区を設け、再び発掘を開始しました。面積約90m2 です。この時の調査記録の公表は全くされていませんが、東京大学の人骨型録によると、個体骨格を残す人骨10体、その他6体分の部分骨が登録されています。おそらく、縄文時代中期後葉(約4,300~4,000年前)に盛んに行われた、竪穴住居跡の覆土を意識した廃屋葬ではなく、D 地点と同様に、ローム層を掘り込んで死者を埋葬する、ごく普通の葬法がとられたらしく、縄文時代後期に一般的なあり方を示しています。東京大学人類学教室では、昭和25年(1950)8月2日から14日まで、再び姥山貝塚の発掘を実施しました。E 地点の東に隣接する所です。この時の調査記録も公表されていませんが、人骨型録によると、個体骨格を残す人骨23体、幼児1体、その他最高11体分の部分骨が発見されたようです。以下略
Mitsuhiro

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元々は国が指定した史跡の姥山貝塚を中心に、遊歩道やベンチなどを設置して公園にしたという事なんですかね。 今回はバス通りにある史跡の入口から入園しましたが、手すりがあるとはいえ上りの階段が中々大変でしたね。グーグルマップ上だとその階段は表示されないため、マップを頼りに初見で訪れる方は細い道をぐるりと回って行く事になるのかな。バス停の近くに入口を示す看板があるので、参考にしてみて下さい。 遊具などは何も無く、舗装された遊歩道と屋根付きの休憩スペースにベンチがあり、公衆トイレと水道もありました。天気の良い日にはウォーキングを楽しむ利用者が大勢訪れる賑やかな公園でした。
おかゆ

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貝塚の発掘のポイントが各看板によって姥山貝塚の概要をしることができる。 が、ここで過ごす親子連れには関係ないだろう。広々とした空間に発掘したあとがわかるように区別されたエリアが道とともにある。 冬の温かい日には、外周の道をウォーキングしている人や起伏のある原っぱでおしゃべりしている親や中程にある曲りくねった道をキッズライダーやキックボードをのり遊んでいる幼児など長閑な冬の一日が眺められる。 外周にある樹木は枝振りが見事である。遠くスカイツリーが見える。 トイレあり。駐車場は今閉鎖されている。
Kamon

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