Free entrance, large flat area, car parking is free for short stay, beautiful flowering trees in Spring, nice walking trails, many toilets for public. Komaki Castle is on the top of the mountain100 yen entrance fee, has a museum inside, the best part is the top deck from where it is possible to have a 360 degrees view of the neighborhood. In clear days it is possible to see in the horizon Nagoya high buildings...
Read more濃尾平野の只中に存在する独立峰で、先には織田信長が岐阜城(当時は稲葉山城)攻略の前進拠点、後には徳川家康が小牧長久手の戦いで陣城としていち早く押さえ、秀吉を悔しがらせたとも言われる戦略的要地にあります。
信長は桶狭間戦勝後に東の脅威がなくなったので、すぐに美濃攻めを開始するのですが、当時の本拠地清洲城から稲葉山城は兵の移動や補給兵站の面で遠すぎました。そのため3年後に稲葉山城を直接望むことができる小牧山に本拠地を移し、また計画的に城下町も整備して攻勢を本格化させるのです。
これは義父斎藤道三の弔い合戦を超えて、天下取りの第一歩として重要な意味を持っていました。隣国の美濃は物成が良く54万石もある大国だったからです。それに豊かな濃尾平野を持つ本拠地の尾張57万石を加えると、それだけで100万石を超えてしまいます。この2カ国を肉の脂身に例える人もいるほどです。これに熱田神宮の門前町と港の交易からあがる利益も加わります。
武田信玄の場合と比較してコレがどれぐらい恵まれているかと言うと、信玄の支配地域は地図上では大きく見えて、勢力は織田勢と拮抗しているように思えますが、実は人の住めない険しい山地がほとんどで甲斐国と信濃国を合わせても62万石に過ぎず、晩年の最大版図の時でも100万石弱しかなかったと言われています。
要するに信長は美濃を手に入れた30代前半で、既に信玄の最盛期に近い経済力を持っていたのです。兵の動員能力、最新装備の導入、ダメージからの回復力など戦闘以前の基礎体力が全く違ってきます。やっぱり闘うには強靭な足腰があってこそですからね。
城に関しては移転から4年後には稲葉山城を陥落させ、そこに本拠地を移してしまったので、今まで小牧山は戦時急造の砦程度の規模と構造だと考えられてきました。 しかし発掘調査の結果、城郭史上画期的な試みがなされており、織豊系城郭の原型となった事が分かったのです。
特に注目をあびたのは防御性を無視した幅広く見通しのいい大手道が山の中腹まで続き、石垣等で厳重に守られているのは山頂の主要部のみという特異な構造です。なぜなら約10年後の安土城のプランにも、そのまま構造が反映されていたからです。この大手道跡は小牧山城の見所の一つなので、お見逃しなく。
それにしても信長の野望実現の第一歩となった小牧山城ですが、こっちから稲葉山城が見えるのだから当然向こうからも見えたはずで、城主の斉藤氏は、物凄く執念深くて非常に面倒なヤツが、何かこっちに近づいてきたな・・と内心辟易していたんじゃ...
Read more🏣愛知県小牧市堀の内1丁目 🅿️🚗…有ります(有料) 🚏🚌…市役所前下車徒歩12分程 🚃…JR...
Read more