The site of Kurume Castle is a park where visitors can still see the impressive stone walls and moats, remnants of the castle's former structure. The Arima Memorial Museum is located within the former honmaru, offering exhibits related to the Arima clan and the history of the Kurume Domain. The ruins are designated a Municipal Cultural Asset and are known as a scenic spot, especially during the cherry blossom season when about 30 cherry trees bloom, adding color to the...
Read more久留米城は、永正年間(1504~21)頃、筑後川氾濫原の「鷺ノ原」と呼ばれた湿地帯の中に所在する、小竹が鬱蒼とした丘に在地の豪族が城を築き、「笹原城」と称したと伝わります。この城は間もなく廃城となりましたが、天文年間の始め頃、御井の郡司某が再び城郭を構えたとされます。 天文2(1533)年1月、大内氏の家臣、陶興房は筑後へ進攻し、大友家家臣の豊饒美作(ぶにょうみまさか)入道が在番する久留米城や安武城(海津城)を落城させ、さらに肥前へ進攻しています。 天正元(1573)年頃、軍事力も有する高良山の宗教勢力のトップである座主を勤めていた良寛上人は、弟の麟圭を久留米城主としました。天正6(1578)年の耳川の合戦によって、大友氏の勢力が衰退したことを契機として、良寛は大友方、麟圭は龍造寺方に分かれ、両者の攻防の最前線として、麟圭が籠る久留米城をめぐり激しい攻防戦が行われました。天正13(1585)年、大友方を率い勢力回復に尽力していた立花道雪が病死すると、大友方は筑後から撤退し、この争いは一旦、龍造寺・島津方に属した麟圭が勝利しました。しかし、同15(1587)年、豊臣秀吉が九州を平定すると、麟圭をはじめ、筑後の国人たちの領地は全て没収され、国人たちは衰退しています。 秀吉の命により新たに久留米城主となったのは、毛利元就の末子で、小早川隆景の養子となった小早川秀包です。秀包は久留米城を改修し、東向きの城としました。城内には豊臣秀吉から大坂城の一部を拝領した「大坂書院」があり、内部は長谷川等伯の画で装飾されていたと伝わります。また、秀包は黒田如水や義父大友宗麟の影響を受けたキリスト教徒であり、ルイス・フロイスらの布教活動を許して、城下には教徒7,000人と2つの教会があったとイエズス会に報告されています。 慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦が起こると、秀包は毛利家の一員として西軍に属し、合戦に勝利した徳川家康から秀包をはじめ、立花宗茂・筑紫広門ら筑後を領した大名は全て領地を没収され、秀包も間もなく長州で病没しています。 関ヶ原合戦後、敗軍となった西軍の中心人物、石田三成を捕らえた功績により、三河国岡崎城主10万石の田中吉政には、筑後一国32万石余が与えられました。 田中吉政は柳川城を本城として、領内の7~10ヶ所に支城を置きました。久留米城もその一つで嫡子の主膳正を配し、城島城・榎津城と共に肥前との国境を守備させています。主膳正は若くして亡くなり、家老の坂本和泉が久留米城の城番を勤めたとされますが、元和元(1615)年に出された一国一城令を受け、久留米城は廃城となっています。田中吉政没後、二代藩主となった忠政には嗣子がおらず、元和6(1620)年に忠政が没すると、田中家も廃家となりました。 その後、筑後国は北部21万石分を有馬豊氏、南部の11万石分を立花宗茂に分割して与えられ、有馬豊氏は翌年丹波福知山から久留米入りしました。ところが久留米城は廃城となっており、豊氏は藩内の有力者の家に寄宿せざるを得ない状況でした。 豊氏は久留米城の再建と城下町の大改造に取り組み、約70年後、第4代藩主の時代に完成しています。以後11代の歴代藩主が久留米藩を治め、明治を迎えました。 久留米城は明治初期に解体処分とされましたが、有志の尽力で本丸は残り、現在は5柱の藩主を祭神とした篠山神社、藩主有馬家ゆかりの歴史資料や美術工芸品を公開する有馬...
Read more本日ご紹介する【いいコレ】スポットは、久留米市篠山町にある福岡県指定史跡『久留米城跡』
この久留米城に、久留米藩初代藩主・有馬豊氏がやって来て、2021年でちょうど400年の記念を迎えます。
江戸時代の頃の久留米城の広さは、久留米市役所まで広がっており、城の中心には本丸が建ち、それを囲むように建てられた7つの櫓は全て3階建て位ほどの高さがある豪華な造りだったようです。
そして現在、久留米城跡で残ってるのは「石垣」ですが、 久留米城跡の顔となる「巽櫓(たつみやぐら)」には、 石(築石)を削ったすき間に、間詰石を詰めた〝打ち込み接ぎ(はぎ)″の積み方(写真2〜4枚目)
「太鼓櫓(たいこやぐら)」では、 同じ大きさの石を積んで、横のラインがまっすぐ通っている〝布積み″の積み方(写真1枚目)
石垣の隅(角)で直方体に加工した石を長辺と短辺が交互に積み、石垣の強度が上がる〝算木積み″の積み方などがあります(写真1〜4枚目)
令和になった今も残る久留米城址の石垣。 観て回るだけでも充分な価値があるオススメスポットです。
【久留米城址とは】
久留米城の始まりは16世紀前半の戦国時代までさかのぼります。 小早川秀包(こばやかわひでかね)から田中吉政へと城主が移り変わり、その後、1621年には有馬豊氏(ありまとようじ)が入城し、11代有馬頼咸(よりしげ)の際に行われた廃藩置県(明治4(1871)年)まで、約250年の間、続いて行くこととなります。 明治4(1871)年、久留米藩を舞台に発生した反政府運動『久留米藩難事件』は11代藩主有馬頼咸や藩の重役を巻き込み有為の藩士が獄にくだり命を失うという明治維新政府始まって以来の一大疑獄事件となりました。 その後、久留米城が終焉(しゅうえん)を迎えたのは明治5(1872)年。新政府の所有となった城は売却が決定しました。 明治8(1875)年までに全ての建物の解体がされ、石垣まで運び出される予定だったところ、実業家の緒方安平(石橋正二郎の叔父)たちが買い戻し、なんとか城跡の形を留めることができました。 そして、明治10(1877)年には、本丸跡地に有馬豊氏ら5人の歴代藩主を祀る〝篠山神社″(ささやまじんじゃ)が鎮座することになります。
有馬家が約70年かけて大規模な改修を行い完成した久留米城は、平山城で筑後川沿いの丘陵頂部に本丸があります。規模は東西96.4m、南西156.4m、高石垣は約15m。中央には御殿、周囲は7つの櫓(やぐら)を二重の多聞櫓で連結し、優美さと防禦(ぼうぎょ)性を兼ね備えています。
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