熱田湊(みなと) (信長の時代)まだこの辺りが「あゆち(愛知県の語源)潟」と言う海だった頃、この海で、信長が釣りをしていたようです。大河ドラマ『麒麟がくる』で信長さんが毎朝釣りから帰ってくるシーンがありましたが、どこの海か分かりませんでした。ここがまさにその「海」でした。
この頃の信長といえば、髪を茶筅に結い、だらしがない格好をして町をうろついていましたので、「大うつけ」と呼ばれてとても評判が悪かったようでした。でも、実は有能な家来を集めて戦の準備をしていたのですね。 私は、この頃の信長が好きで、この界隈で信長が闊歩していた様子を想像しただけでも嬉しく楽しくなります。 また、(天文23年)1554年に信長が村木砦まで船を出したのもこの海でした。
この海から東へ行った所に、徳川家康が子供の頃に、織田信秀さんに人質で囚われていた「加藤図書助(順盛)屋敷跡」があるので、家康にとってもこのあたりは馴染みの場所だったと思います。
(江戸時代)ここから伊勢国桑名宿まで七里(21キロ)の海上路で結ばれていたので七里の渡しと呼ばれ、常夜灯が当時の名残りをとどめています。 この船着場に松尾芭蕉も訪れて、俳句を詠んでいますし、歌川広重もこの「渡し」を題材に『東海道五十三次』の中で絵を描いています。オランダの医師シーボルトも訪れています。
今は公園となっており、駐車場がありますが、クルーズ客用みたいで停められなかったです。 近くにコインパーキングがあります。地下鉄「熱田神宮伝馬町」駅から歩いて行け...
Read moreQuiet Little park with a deep and important history. This was the long-standing port during Edo Japan before the new one was built in the Meiji era.
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Read more宮宿から桑名宿を結ぶ東海道唯一の海路である七里の渡しの宮宿側の船着き場跡で、地元では古くから宮の渡しと呼ばれています。
このおよそ七里・約27.5km(干潮時には遠回りするのでおよそ十里・約39km)の航路は、江戸幕府が宿駅制度を定める遥か以前の鎌倉時代から、東西間交通の難所である木曽三川を越えるための重要な海上交通路として利用されていました。 幕末の頃には船着き場から堀川を少し下って伊勢湾に出るようになりましたが、これは江戸中期以降の新田開発によって航路を残すようにして徐々に沿岸を干拓していった結果で、それ以前は船着き場の西側からぐるっと南東側までずっと遠浅の海だったので、現在とは全く違う景色が広がっていました。
長らく交通の要衝であった宮の渡しですが、明治5年に宮宿から現在の弥富市前ヶ須まで東海道が延伸されて、前ヶ須〜桑名間の官営渡船が運行を始めたことでついに廃止となります。 役割を終えた宮の渡しの船着き場は長らく放置されたため荒廃しましたが、戦後になってかつての遺構をいくつか復元し公園として整備されました。 遺構の復元はもう行われないようですが、個人的には宮の渡しの象徴は広重が描いた熱田神宮一の鳥居であった通称・浜の鳥居なので、今からでも復元してほしいくらいです。
往時のように渡し船を待つ人で溢れかえることはないものの、地域住民や時折訪れる歴史ファンに親しまれる憩いの場...
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