■ 基本情報 氏名:松平 忠昭(まつだいら ただあきら)
生没年:1617年 ~ 1693年(享年77歳)
家系:大給(おぎゅう)松平氏、父は松平成重(なりしげ)
役職:府内藩主(3代目)
■ 生涯の歩み(略年表) 1617年 0歳 誕生(松平成重の次男)
1633年(寛永10年) 16歳 父の死により、丹波国亀山城主に就任(現:京都府亀岡市)
1634年(寛永11年) 17歳 豊後国へ国替え:大分郡・直入郡・玖珠郡・速見郡のうち22,200石を与えられ、速見郡亀川(現:別府市)に移住
1635年(寛永12年) 18歳 大分郡中津留(現:大分市中津留)へ移動
1642年(寛永19年) 25歳 大分郡高松(現:大分市高松)へ移動
1658年(万治元年) 42歳 日根野吉明の死後、府内藩主に就任
1693年(元禄6年) 77歳 死去、府内の浄安寺に葬られる
■ 意義と特徴 ✦ 家系:忠昭は譜代大名の名門「大給松平氏」出身。将軍家に近い家系。
✦ 移転の多さ:10代から20代にかけて複数回、拠点を移しながら大分の地に定着。
✦ 府内藩主としての確立:日根野氏の後を継ぎ、徳川譜代の大名家が府内を治める時代の始まりを築く。
■ 補足:前任者との関係 前任の日根野吉明(ひねの よしあきら)の死後に藩主となっているため、実質的な政権交代が起きた年(1658年)。
この交代により、豊後・府内は日根野氏から松平氏へと支配が移る重要な転換期となる。
■ 埋葬地 浄安寺(じょうあんじ)(大分市)に埋葬。 → 府内藩主たちの菩提寺として知られ、現在も石碑等が残る可能性あり。
■ 豆知識・補足 松平忠昭の家系は後に明治維新を迎えるまで府内藩を治め続けることになる。
「移動しながら徐々に根を張る」というスタイルは、幕府からの信頼とともに、地元の信任も得ていたことがうかがえる。
■ 基本情報 名前:竹中 重利(たけなか しげとし)
生年没年:1562年 ~ 1615年(享年54歳)
役職:府内城主(豊後・府内2万石 + 預かり地1万5千石)
■ 主な経歴と実績 慶長5年(1600年)
関ヶ原の戦いでは 東軍(徳川方)に参加
戦功により、大分郡内に2万石と預かり地1万5千石を拝領
翌年、府内城主に就任
慶長7年(1602年)
徳川家康の許可を得て、府内城の大改築を実施
四層の天守を中心に、多数の櫓(やぐら)・塀を整備
堂々たる近世城郭を築き上げる
城下町の建設と都市整備
城郭完成後、城下町の造成を本格化
40以上の町割りを行い、計画的な市街地を形成
港「京泊(きょうどまり)」を開港
商船の出入を活性化させ、城下と海路を結ぶ
道路整備
府内城と港・町を結ぶ交通インフラを整備し、経済活動の基盤を作る
■ 評価と意義 築城と都市設計の名手
府内城の整備と城下町の基盤づくりは、現在の大分市の都市構造の原型といえる
近世府内城下町の繁栄の礎
経済・交通・防衛を兼ね備えた都市としての府内の発展に大きく寄与
■ 関連用語の補足 預かり地:正式な所領ではないが、任された土地。支配権はあるが幕府に返還する可能性あり。
京泊(きょうどまり):府内の外港。海上交易の拠点となった。
■ 現在の遺構・ゆかりの地 府内城跡(大分市中心部)
石垣・堀など一部現存し、現在は公園・観光地となっている
京泊地区(大分市)
現在も海運・物流の拠点の一つ
1597年に築城が始まり、1602年に完成した平城です。当初は4層の天守を有していました。その後、東西1.1キロメートル、南北1.7キロメートルに及ぶ城下町も建設されました。現在は公園として整備され、廊下橋などが復元されています。石垣、土塀、堀、人質槽、宗門槽、槽跡は県指定史跡、その他の施設は市指定史跡です。
日本100名城の一つ。豊臣秀吉に仕えた石田三成の妹婿・福原直高から竹中重利が引き継ぐ形で築かれた大分城は、別名・府内城とも呼ばれていました。現在は、天守閣のあった本丸周辺の水堀は埋められ、大分城址公園として利用されています。桜の名所としても知られ、毎年70本以上のソメイヨシノが咲き始めると花見客で賑わいます。
府内城は、寛保3年の大火の後も、明和6年(1769)の大地震、安政元年(1854)の大地震、昭和20年(1945)の空襲で多くの建物が損壊されたのです。 江戸時代の建物としては、人質櫓と宗門櫓のみとなってます。
府内城は、荷揚城・白雉城とも呼ばれているが、慶長2年(1597)臼杵より入部し、大分・速見・玖珠3郡で12万石の領地をもった福原直高によって城地を選ばれ、築城された。豊臣秀吉によって「豊府ハ国中ノ咽喉也、汝要害ヲ見立改築スベ」しと命じられたものである。慶長4年、三重櫓と家臣屋敷が完成したが、福原は慶長5年改易された。関ヶ原合戦後、竹中重利(重隆)が府内城主として入り、石垣をはじめとする増築を行い、慶長7年までに4層の天守閣と諸櫓・門・三の丸・北西砦(山里丸)が造られた。城下町も含めての完成は、慶長12年であった。その後、城主は日根野氏が入るが、万治元年(1658)松平忠昭が22,000万石で入り、明治4年(1871)まで歴代松平氏が領した。廃藩置県後は、大分県庁が置かれた。
府内城跡(大分城跡) についての詳細な情報ですね!
府内城の歴史 府内城は、1597年(慶長2年) に福原直高 によって築城が開始されました。この地は、もともと「荷落」という地名でしたが、築城後に縁起を担いで「荷揚(にあげ)」と改称され、城も 荷揚城(白雉城) と呼ばれることもありました。
しかし、福原直高は短期間で城を去り、その後の城主 早川長敏 も関ヶ原の戦いで石田三成側(西軍)についたため、滅亡しました。
1601年(慶長6年) には、豊臣秀吉の知将・竹中半兵衛の一族である 竹中重利 が城主となりました。彼は早い段階で徳川方(東軍)につき、1602年(慶長7年)に未完成だった荷揚城を完成させ、府内城と改名しました。
その後、竹中家はわずか2代(33年) で断絶し、次の城主 日根野吉明 は新しい道路(初瀬井路の開通)や市場の開設、寺社の再建などの功績を残しました。しかし、彼には跡継ぎがなく、一代で終わりました。
1658年(万治元年) からは、徳川家の一門である松平忠昭 が城主となり、以降、松平家が約200年間 府内藩を治めました。
1743年(寛保3年) の大火で天守閣を含む城の大部分が焼失し、その後天守は再建されることなく、城の施設は徐々に縮小されていきました。
1871年(明治4年)の廃藩置県 により、府内城は廃城となり、現在は 城址公園 として市民に親しまれています。
現在の府内城跡 現在、府内城跡 は 城址公園 として整備されており、石垣、堀、土塀、櫓 などが当時のまま残っています。 また、平成9年(1997年)には 「山里丸」と「西の丸」を結ぶ廊下橋 が復元され、城の雰囲気をより感じられるようになっています。
城跡の見どころ
石垣や堀の遺構 西の丸と山里丸を結ぶ...
Read moreRather run down and not very much to do, just a fancy parking lot at the moment. Albeit a parking lot in a convenient location. Most memorable thing i did here was feed some cats. I noticed some poor malnourished kittens (one with an eye infection to boot), so I went to the local conbini to get them some kibble. But I really hope they'll be caught and spayed/neutered, because right now they're rather pitiful...
Would be cool if the old buildings were restored, and maybe allow people to see the inside architecture of these...
Read more桜の時期は非常にきれいでした。
築城以前 、古代にはやや上流の上野丘陵に豊後国の国衙が置かれていた。鎌倉時代から戦国時代にかけて豊後国・筑後国の守護職・守護大名であった大友氏は、現在の大分駅東方(府内城から見ると南東方)に、大友氏館と呼ばれる守護館を築いて本拠とし、この館を中心に府内と呼ばれる市街が形成された。また、南方の上野丘陵には上原館と呼ばれる堀や土塁を備えた防衛拠点が置かれていたが、2度ほど府内への侵攻を受けた際には、大友氏方はいずれも府内を捨てて近隣の高崎山城などへ拠点を移している。府内城という名称は、大分市中心部が中世に府内と呼ばれていたことにちなむ。 安土桃山時代・江戸時代 1586年(天正14年) - 島津氏の侵攻により大友氏館などを含む府内の中心部が焼き払われる。 1593年(文禄2年) - 豊臣秀吉の臣下に入った大友氏第22代当主大友義統が、文禄の役での失態のために改易される。 1594年(文禄3年) - 早川長政が代官として府内に入る。長政は、当初は家島に仮館を構え、大友氏館を改修して移り住んだと伝えられている。 1597年(慶長2年) - 12万石を得て臼杵より転封した、豊臣秀吉家臣の福原直高は、堅固な城郭を求めて大分川河口付近に築城を開始する。当時の海岸線は現在より内陸に入り込んでおり、この地では大友氏の時代に船の荷役が行われていた場所で「荷落」と呼ばれていたが、縁起を担ぎ地名を「荷揚」に改め、名を荷揚城としたという。 1599年(慶長4年) - 4月、荷揚城完成。5月、豊臣秀吉の死後、石田三成派の直高は徳川家康により6万石に減封の上、再び臼杵に転封され、直高入封前に府内代官であった早川長政が入城する。 1601年(慶長6年) - 関ヶ原の戦いで西軍に付いた長政が改易となり、竹中重利が3万5千石で入城する。直高の時代に築城された荷揚城の大改修を開始する。 1602年(慶長7年) - 天守、諸櫓、山里曲輪、内堀が完成。 1605年(慶長10年) - 外堀が完成。 1607年(慶長12年) - 笠和口、堀川口、塩九升口の各門が完成し、大改修が概ね終了する。 1634年(寛永11年) - 重利の子・重義が長崎奉行時代の不正のため、切腹。2代で改易となる。代わって、日根野吉明が2万石で入城する。 1656年(明暦2年) - 吉明が嗣子なく没し日根野氏は廃絶。臼杵藩主稲葉信通が城代となる。 1658年(万治元年) - 大分郡2万石を領する松平忠昭が高松陣屋より入城する。以後、明治維新まで大給松平氏が居城する。 1743年(寛保3年) - 大火により天守を含む大部分の建造物が焼失する。以後、天守は再建されなかった。 近現代 1872年(明治5年) - 城内に大分県庁が置かれる。 1919年(大正8年) - 県庁の拡張工事のため内堀の一部が埋め立てられる。 1945年(昭和20年) - 大分空襲により櫓数棟が焼失する。 1963年(昭和38年) - 大分県の史跡に指定される。 1965年(昭和40年) - 東丸着到櫓・二重櫓、西丸二重櫓、大手門を復元。 1996年(平成8年) - 西丸と山里曲輪を結ぶ廊下橋を復元。 2006年(平成18年)4月6日 -...
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