◆ 水城(みずき)の歴史的背景 時代と目的
天智天皇3年(664年)に築造。
白村江の戦い(663年)での敗北後、防衛体制を強化するために建設。
大宰府を守る防衛施設として、大野城・基肄(きい)城と連携。
記述
『日本書紀』:「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名を水城という。」
場所
福岡平野と筑紫平野の間の狭隘部に築造。
現在の福岡県太宰府市・大野城市・春日市にまたがる。
◆ 構造の概要 土塁(どるい) 長さ:約1.2km/基底部の幅:約80m/最大の高さ:約8m
構造:上下2層の積層構造
下成土塁(かせいどるい)
沖積地に建設。
30cm間隔で積層。敷粗朶(しきそだ)と呼ばれる枝木を地盤補強に敷く。
技術は百済伝来の土木法とされる。
上成土塁(じょうせいどるい)
粘土や真砂土を10cmほどの層で突き固める。
発掘調査で突き固めた痕跡=足跡も確認。
外濠(がいほり) 博多湾側に幅約60m、深さ約4.5mの外濠を確認。
水を貯えるための施設とされてきたが、かつては城壁かダムか論争あり。
導水施設(木樋)によって、内側から外濠へ水を流した可能性がある。
ゆるやかな地形の傾斜により、段階的に貯水した構造(「加門」のような段構え)が推定されるが未確認。
◆ 木樋(もくひ)-水を導く設備 木樋の構造 幅70cm、長さ265cmの板材を連結し、箱型に組み上げる
鉄の鍵(錠)でつなぐという高度な技術。
上部に約40cm幅の蓋板を被せた。
土塁内を貫通し、水を通すための導水路。
木樋の現存品(伝世木樋) 観世音寺に伝わった木樋板材
発掘木樋と同様の構造、鎌の使用痕も確認。
発見の記録
江戸時代・元禄年間に掘り出され、貝原益軒『筑前国続風土記』にも記述あり。
「大なる木」として記録されたものと考えられる。
◆ 特記事項・その他の情報 西門周辺は筑紫館からの官道が通っていたと判明。
水城の西側には「小水城」も複数存在(大野城市・春日市で確認)。
「特別史跡...
Read more続100名城になっていますが、実際には城跡というよりは、外敵からの防備施設です。 水城は、日本書紀にも記されている通り、博多湾と大宰府政庁の間、約1kmに渡って築かれた古代の土塁と水堀跡です。
約1350年前、斉明天皇(皇極天皇の再即位)による百済への援軍が、白村江(はくそんこう又ははくすきえ)の戦いで唐に大敗を喫した為、急ぎ防衛施設が必要となり、築き上げたのが水城や古代朝鮮式山城の大野城、基肄(きい)城です。また近年になって、大宰府政庁を守る為の痕跡の一部(前畑遺跡)が発見され、実は水城がぐるりと囲む様に築かれていたのでは?とも推測され、一大防衛網だったともなれば、興味深い遺跡になると思います。 因みに、同時期に同じ目的の朝鮮式山城が瀬戸内海沿い、今の山口、愛媛、香川、岡山そして兵庫の5ヵ所?(まだ他にもあるかも?)に築城されました。最も有名なのが、岡山の「鬼ノ城(100名城)」だと思います。これらの防衛網を造ったのが、斉明天皇の皇子、当時はまだ中大兄皇子だった、後の天智天皇です。 これらの歴史背景を知っていれば、パッと見ただの土山も何か感慨深く感じられるかも? 少し残念なのが、高速道や主要道を通すため、土塁が削り取られてしまっていることです。
ここから大野城まで車で約30分...
Read more水城は国の特別史跡に指定されており、続日本百名城に認定されている。
とはいえ水城は城というよりも土の防塁(土塁)である。規模は全長1.2kmに及び幅77m?高さ9mの規模を持つ。今は失われているが、かつてはこの防塁の内外に幅40m程度の堀まであったという。
現在も道路などで分断されてはいるが、この水城の遺構がかなりの規模で残されている。正直地味ではあるが、7世紀の国家事業であり、平野部で1300年が経過してもしっかり残っているのは驚きである。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷は大陸勢力の日本本土への侵攻を恐れ九州〜中四国、畿内各地に各種防衛施設を建造した。今も点々と当時の遺構が残されている。
特に北部九州は朝鮮半島に近いこともありこの水城や至近の大野城、少し南にある基肄城などが建造された。
水城、大野城は至近の位置にある当時の九州の中心太宰府政庁防衛の目的で造られたものであろう。敵が北部九州に上陸した場合、遮るもののない福岡平野を南下してくるはずであり、なんとかこの位置で食い止めるべく建造されたのだろう。
水城単独でわざわざ見学に来るのはちょっと微妙なので大野城とセット...
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