The museum display is heavily focused on Townsend Harris. But visitors should know that Gyokusenji was the first foreigner housing complex in Tokugawa Japan. In 1854 it housed in succession the Russian diplomatic delegation whose ship Diana was destroyed by a tsunami, an American mercantile expedition on the Caroline E. Foote, a German entrepreneur August Ludorf who traded in Shimoda for six months and ultimately the businessman turned diplomat Townsend Harris! Then Shimoda slipped back into obscurity until the new roads and Goto's Izukyu connected...
Read moreいや〜初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリス氏の境遇は、想像を絶しますわ・・・。なぜなら彼が下田まで乗って来た軍艦サン・ジャシント号の乗組員は、領事館となった玉泉寺で国旗掲揚用のポールを建てるのを手伝うと、さっさと船に引き上げ、彼を残して出港してしまったからです。 (もう1人の欧米人で通訳のヒュースケンはオランダ国籍)。文字通りたった1人の「アメリカ代表」です。
母国アメリカは船で何ヶ月もかかる太平洋の彼方であり、次の船がいつやって来るのかも分かりません。(実際に着任から18ヶ月以上もアメリカからの音信はありませんでした)また文化も言葉も全く異なり、話を共有できる人間はヒュースケンだけ・・。 こんなの、火星に置いて行かれるのと何も変わらないじゃないですか!
本堂が宿所に当てられ、本尊の釈迦如来を挟んで入口から左側がハリス氏の部屋で、右側がヒュースケンの部屋でした。今でもよく保存されストーブを取り付けた跡も残っています。
お寺なので当たり前ですが、彼らからすれば不気味な異国の蕃神の偶像の前を通らなければ互いに行き来も出来ません。ワタシなら怖くて、夜にトイレに行けないかも(笑)。
この状況でもハリス氏はアメリカ大統領特使として、責務を果敢にまっとうしようとします。彼の任務は日本との通商協定の締結です。 彼はたった1人とはいえども、バックには黒船をはじめとする強大なアメリカの軍事力があります。
「このまま鎖国を続けていたら、アヘン戦争の時のように英仏の大艦隊が江戸城下に押し寄せて来るかもしれない。その時に仲介の労をとって危機を回避させられるのはアメリカだけである。 また事前にそうならないように、開国する事こそが肝要である。アメリカがその手助けをしてあげよう。」という論法です。まるでアメリカが正義の味方みたいですね(笑)。
この時、日本は幕府という軍事政権である事が幸いしました。欧米の細かい技術や文化法制は理解できなくとも「戦争に勝てるか負けるか」だけは分かるのです。
一方、中国や朝鮮半島は儒教による濃厚な官僚国家になってしまっていたため、「善悪」による観念論で判断してしまい、現実の軍事力の脅威がまったく分かっていませんでした。
アヘン戦争の情報を入手し(戦後3ヶ月以内には全てを知っていました)分析した結果、はじめは渋っていた幕府もハリスの主張の理を認め、通商協定の締結へと舵を切ります。感情的な排撃論など、圧倒的な戦力差の前には何の意味もないことは明らかだったからです。
その後、米軍艦ポーハタン号上で日米修好通商条約が結ばれて横浜が開港となると、ハリスは江戸へと去り玉泉寺領事館は閉鎖となります。この間、わずか2年...
Read more玉泉寺は1854年(安政元年)に下田に入港し、同年5月に日米和親条約付録下田条約が結ばれると、米国人休息所、埋葬所に指定されました。
1856年(安政3年)、タウンゼント・ハリスが来日すると日本で最初のアメリカ総領事館が玉泉寺に開設されました。
後に薩摩藩士に襲われて、命を落とす通訳ヒュースケンらと共に10名程の来日で、ハリスは玉泉寺境内に星条旗を掲げました。 日米修好通商条約は困難を極めましたが、2年10ヶ月の滞在でした。
境内にはペリー艦隊の乗組員5名(サスケハナ号、ポーハタン号等)のお墓があります。こちらからは下田湾が良く見渡せました。
又、ブチャーチン率いるロシア船デイアナ号も1854年に来航していたのですが、その年の安政の大地震で下田に大津波が来て亡くなったロシア人3名のお墓もハリス記念館側にあります。
日本との交渉が大変だったので、ストレスで病気が重篤な状態になったハリスの為に当時珍しかった牛乳が二週間届けられ、本堂前に牛乳の碑が建てられていました。 看護人としてお吉が3日間通ったのはこの時期です。
玉...
Read more