別名 和田城 城の形式 輪郭梯郭複合式平城 天守閣 独立式層塔型御三階櫓3重3階(現在は無し)
・歴史 高崎城の前身は平安時代末期に創建された和田城が始まりといわれ、古からこの地を治めてきた豪族、和田義信が領していた。 室町時代に入り関東管領として上杉氏が入り、和田氏は上杉氏に帰順したが、永禄4年(1561年)に突如として上杉氏の政敵である武田氏に寝返る。 これに上杉謙信公は怒り、空かさず上杉軍は和田氏に対し猛攻を加えますが、和田城は何度も上杉氏の猛攻に耐え抜き不落の城として名を馳せる。
武田氏が織田信長公に滅ぼされた後は、和田氏は小田原の後北条氏につき天正18年(1590年)の小田原征伐の時に、ついに不落の城だった和田城は、上杉景勝公と前田利家公の連合軍の前に落城した。
同年8月、関東八カ国に国替えとなった徳川家康公は徳川四天王の一角の井伊直政を箕輪城から、12万石でこの高崎に移り高崎藩が立藩する。
・高崎藩 直政は中山道(なかせんどう)と三国街道(高崎〜北陸道の新潟県長岡市寺泊まで)の分岐点にあたる交通の要衝である当地に、通行の監視をする絶好の場所に近世城郭を行う。高崎という地名に改名したのも、ちょうどこの時で、高崎には由来があり、箕輪城下にあった恵徳寺の和尚が「松は枯れることがあるが、高さには限りがない」という進言により高崎と決めた。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、井伊直政は近江国(現在の滋賀県)佐和山に18万石で移封となる。
替わり、酒井家5万石、戸田松平家5万石、藤井松平家5万石、安藤家5.6万石、大河内松平家が5.2万石→6.2万石→7.2万石、間部家5万石、再び大河内松平家が7.2万石で幕末期には8.2万石と目まぐるしく藩主が変わって行きます。そして最後大河内系松平輝声(てるな)の時に明治維新を迎えます。高崎は交通の要衝ということで幕府の要職に就く藩主が多い出世城で、特に大河内松平家は幕府の要職に就く藩主が多かった。明治6年(1873年)の廃城令により大日本帝国陸軍の第3師団分営所となり、後に第15歩兵連隊の駐屯地となります。
現在は、僅かに城の遺構があるくらいで外堀、土塁、乾櫓しか確認がとれません。 高崎城址公園、高崎公園、乾櫓、群馬音楽センターがある地点が三の丸。
高崎市役所、国立病院機構高崎総合医療センター付近が二の丸。
国立病院機構高崎総合医療センターの駐車場付近が西の丸。
前橋地方裁判所高崎支部、群馬地方検察庁高崎支部、東京出入国管理局高崎出張所、カトリック高崎教会、国立病院機構高崎総合医療センター付属高崎看護専門学校がある付近が本丸。
創価学会さんの高崎平和会館付近に御三階櫓があったと思われます。
・高崎藩裏話 第1話…高崎城の大改修 井伊直政が近江国佐和山に転封して5代後に入った安藤重信は3代77年間に渡り城の大改修を加えます。
第2話…時代劇で有名になった人物の終焉の地 時代劇「長七郎江戸日記」の主人公、松平長七郎長頼(実在しない人物)の父で、徳川家第3代将軍徳川家光公の弟、駿河大納言徳川忠長卿の終焉の地がまさに、高崎城でこの地で幽閉され切腹して果てたといわれています。因みに、何故長七郎が実在しない人物かと言うと、劇中、長七郎は30半ばというフレーズがある。史実に基づくと劇中家光公も存命で、、、なんと忠長卿は8歳で父になった計算になってしまうので、↑この物語がフィクションであるということがわかってしまう。
第3話…高崎5万石騒動 明治2年(1869年)10月に起こった一揆で、酷い重税が課された地域がありました。なんと「八公二民」つまり収穫高の8割が領主のもので2割が農民のもので全国的に見れば大変珍しい重税でした。さらに悪いことに明治2年は凶作になり、これが引き金となり一揆に発展した。首謀者は3人で一揆後に処刑された。上野国(現在の群馬県)群馬郡下中居村名主の佐藤三喜蔵、上野国群馬群柴崎村農民の高井喜三郎、上野国群馬群上小塙村農民の小島文次郎。
アクセス JR北陸新幹線、上越新幹線 JR東海道本線・湘南新宿ライン、上野東京ライン、高崎線、上越線、両毛線 JR信越本線 上信電鉄、高崎駅から徒歩10分です。
御城印は、乾櫓から高崎駅方向に歩くと直ぐに文開堂書店がありますので...
Read moreI never thought that there was a castle within here in Takasaki. Its actually right in the mid of the city and you may not notice it at first. Hahaha but when i walk around, i was surprised to see the spot and just figured out that it was a castle...
Read more殆ど何も残っていない在りし日の高崎城を偲ぶ、数少ない場所の一つです。ここにある乾櫓は小さいですがオリジナルの高崎城伝来の物で、明治に廃城になる際に民間に払い下げられ農家の納屋として生き残っていたそうです。それを昭和54年に現在地に移築復元したとのこと。 本来のあった場所は、この三の丸ではなく図書館の先にある高崎流通センター及びNTT周辺にあった本丸で、すぐそばには天守に相当する巨大な御三階櫓もありました。もっとも今は何も無いですけど。 どうも群馬県の城は前橋城もそうですが、石垣ではなく土で出来た城なので、造成がしやすいせいか跡形もないことが多いです。「城」は地方のアイデンティティの主張や地元統合の象徴として最適なので、それがない自治体は羨ましがっている、と聞いた事がありますが、この雑な扱いは何とも・・。
さらに、この乾櫓の復元には少々、というかかなり問題がありまして・・。 昔からの高崎市の住人なら知っているでしょうが、元々ここに石垣などありませんでした。高崎城は関東に典型的な土塁と水堀で構成された城です。他の人の口コミを見ると「石垣が残っている」という記載も多く、そう思う方が自然でこれは行政の罪は重いですね。 石垣なんて残ってなんかいませんから!、それ土塁だと見栄えが悪いから、存在しないものを勝手に後世の人間が付け加えただけですから!。一城郭ファンとして今からでも遅くないので、旧...
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