一般的に田中正造は、足尾銅山鉱毒被害の解決を訴え国や企業相手に身を賭して立ち向かい、最後は渡良瀬遊水池建設に反対し続けた義人である。という理解が大半だと思われますが、果たしてそのような画一的な評価だけで十分なのでしょうか。 アマノジャクな性格なので、多面的な考察をしてみたいと思います。極めて簡潔に書いたつもりですが、長文にて失礼します。
ーーーーーーーーーーーーーー 利根川と渡良瀬川の合流地点近辺は関東平野の中でも相当低地である上、東京防衛のための江戸川分路口の狭窄化などの影響もあり、毎年のように水害被害に遭っていた。 そんな中、明治中頃から渡良瀬川上流の古河足尾銅山から流出した鉱毒が渡良瀬川に流れ込むようになり、下流地域の湖沼や農地も壊滅的な被害を被るようになった。
地元佐野選出の国会議員、田中正造が足尾銅山の鉱毒問題を国会質疑で取り上げた事や、田中の明治天皇への直訴事件などを契機に、公害問題の解決を求める世論がドンドン大きくなっていった。 谷中村を含む近隣農地の鉱毒被害の本質は、勿論銅山からの鉱毒垂流しと共に、渡良瀬川の氾濫による湛水が鉱毒被害を拡大させていると政府は判断。そこで湛水を防ぐため、1903年に政府は「渡良瀬川流域の谷中村に大きな遊水池を作る」事を決定する。
【以下は通説】 論点が鉱毒問題から治水問題にすり替えられた挙句、自分達が追い出されてしまうという事態となり、谷中村民は騒然となった。
議員を辞職して谷中村に移住してきた田中正造の指導のもと、谷中村住民は抵抗するが、国や県は様々な方法で村民の離村を促していった。 わざと崩れやすい堤防工事により村の浸水被害を拡大させたり、使えない排水ポンプを買わされて村を借金漬けにさせたりと、もはや国家規模のいじめの様相。 そして最後まで残った村民の家屋に対し、国家権力による強制取壊しにより村はちりぢりに離散していった。
【ここからは少数意見】 上記の通説はプロレタリア作家であり日本共産党立ち上げにも参加した荒畑寒村の処女作「谷中村滅亡史」(この本は田中正造の依頼で執筆)からのエピソードが大半である(特に国や県の離村対策のくだりなどは)。 荒畑の経歴を見る通り、この本は政治的プロパガンダのバイアスがかかっているであろう事は容易に推測できよう。
渡良瀬遊水池の設置を決定する以前の1897年に、古河鉱山は政府からの命令により100万円(現在の貨幣価値に換算すると約200億円)をかけて公害防止設備を導入。以後新たな鉱毒の流出はある程度は抑えられたそう(過去に流出した鉱毒は引き続き遺留しているが)。 鉱山側による公害防止設備の設置を受け、地域住民は政府への請願内容を鉱山操業停止から損害賠償および治水対策へと変化。政府はそれを受けての遊水池建設となった。
つまり、渡良瀬遊水池の本質は地域住民の請願もあっての(東京の水害防止というのが大前提であるが)治水対策であった。 尚、谷中村以外の住民からは、渡良瀬遊水池計画の発表以降は治水に関する請願は出されておらず、政府の対策に一定の評価をした事が示される。 公害被害が大きく再建が困難な谷中村をスケープゴートとすることで、おらが村は水害から守られる。そう考えたのではないか。
つまり、公害という企業・政府vs住民という構図だけではなく、地域の住民同士の利害争いも大きなファクターだった。 こうなると、田中正造=正義の人、という単純な観点だけでは語れない一面も見えてくるのではなかろうか(特に近隣や利根川下流域の住民から見たら)。
小生から見た田中正造とは、政府の嫌がらせに屈せず公害問題に尽力した義人というよりはむしろ、後の成田闘争や辺野古基地移転問題と同じベクトルに位置する、社会主義的市民運動家のはしりではないか、という評価である。 ーーーーーーーーーーーーーーー
田中正造を顕彰する施設の口コミにこのようなことを書くのもアレかとは思いましたが、多面的な視点で考える事は必要だと思われるので、ご参考に。
最後になりますが、記念館の方々から丁寧に解説頂いて、とても親切にして頂いた...
Read more足尾鉱毒事件で教科書で必ず習う田中正造先生のこと。記念館に行って、学芸員の方の説明を聞いて、この鉱毒事件のひどさや政治家達の利害関係を思い知った。
華厳の滝から流れ落ちた水は渡良瀬川となるが、渡良瀬川の始点に近い場所で、実業家の古河市兵衛は足尾銅山を始めた。鉱山から出る汚水をそのまま渡良瀬川に流したため、渡良瀬川が合流する利根川水系の流域全体が鉱毒被害にさらされた。
水は東京湾にも流れ込んでいたことから、明治政府は利根川水系から東京への流れを止めた結果、利根川水系に水が溢れだし、鉱毒は東京以外で被害を拡大。佐野市出身の田中正造衆議院議員は足尾鉱毒事件に真っ向から挑んで国会で糾弾を開始された。
しかし、後に平民宰相ともてはやされた原敬議員は足尾銅山の副社長であり、子供がなかった古河市兵衛に次男を養子として入嗣させた農商大臣の陸奥宗光、陸軍元老の山縣有朋達は徒党を組んで足尾銅山を擁護し、証拠も隠滅したりして足尾鉱毒事件を揉み消そうと奔走する。
所属する立憲改進党首である大隈重信がこの問題に取り組む姿勢が甘いと怒った田中正造先生は鉱毒を含んだ渡良瀬川の土を大隈重信邸宅に持っていってばらまいて怒りを示すなどされたが、一向に埒が明かないので、思い詰めた正造先生は天皇陛下に直接直訴状を届けようとされたが逮捕されてしまう。先生の直訴状は陛下にまで届かず、およそ100年経ってこの地方に御幸された平成天皇が初めて本物の直訴状をご覧になったとか。
生涯を足尾鉱毒事件解決にかけて、巨悪と戦われた田中正造先生は、リアル半沢直樹だったのだと...
Read more昔国語の教科書に載ってた事で知っている人物。興味本位で立ち寄りましたが、入館は無料です。
受付を済ませると案内の人が手作りのパネル資料を解説してくれ、絵や新聞記事等が多用され分かり易いです。
田中正造は足尾銅山の公害を訴えてました。現場は館林市より100km程離れていたのですが、渡良瀬川を伝って当所含む下流域まで被害が及んだそうです。また渡良瀬遊水地が廃棄物処理場だったそうで、その縁で当所に記念館が在る様です。
教科書では、正造が直訴してチャンチャンだった様な記憶が薄っすら有りますが、実際は公害は直ぐには止まらず、汚染された土地は残り、大団円とは行かなかった様です。
政府と大企業が国策で動き出すと、国民の犠牲が囁かれても止まらない…昨今の社会情勢...
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