I was trying to go somewhere and as directed by Google maps, I have to walk from Minami-senju station. As I exited the ticket gates, the natural instinct was to go straight and cross the road. It’s a dead-end though so instead I ended up here. Apparently it’s a historical landmark. One part is also a cemetery. To go anywhere beyond, you need to take the footbridge which is located at the left side when you exit...
Read more毎月24日はお地蔵さんの縁日だ。 頃やあたかも日曜日。どこかお地蔵さんに行こうかな。 パッと思いつくのは巣鴨(さすが、刷り込みが行き届いてる)。でも混んでるだろうな、パス。 六地蔵という手もあるな。品川、新宿、とね。でもどちらも行ったことあるしな。 おぉ、首切り地藏があるではないか、小塚原のが。そうだ、それがいいや。 という次第でGo! 三ノ輪を起点にアラーキー生家跡から浄閑寺、線路沿いに歩いてゆくと何やらいい匂いが... おぉここは鰻の名店、尾花ではないか! 確かここは澁澤龍彦さんも(ですら、かな)訪れたのだったかな。確か「ブリキの太鼓」だったかを観た後、わざわざ繰り出していったのではなかったかな。何でブリキの太鼓で鰻につながるんじゃい、ってのは龍彦さんのエッセイを読んで下さい(題を忘れて申し訳ないのですが)。 そんな尾花の軒先をかすめて六菖十菊の鰻香を味わいつつ、まずは回向院。 松陰の墓石が黒ずんでいるのは手向けの線香のゆえか、はたまた逆光ゆえの錯覚か。オモテに刻まれた「松陰二十一回猛士」の字は本人の手跡だったかな。 いずれにせよさすがだな、長州。彼の墳墓は結局若林に移されたのではなかったか。郷土の先達の顕彰、その故地を聖地化と、まことに間然するところがない。 さて首切り地藏だが、回向院にはいない。ここも刑場の敷地内だったかもしれないが、そこにはいない。 JRの線路を越えたちょいと先のこの寺に鎮坐している。それも近代の鉄道敷設などで移動があったらしいが。 この巨大な石像を初めて見たのは、もう半世紀に近い昔。草加に住む親戚を訪ねるため地下鉄に乗ると、三ノ輪を過ぎた辺りでやおら地上に出て視界が明るくなった途端にこの像が目に入るのだ。 幼心にはその巨大さが異様に感じ印象に残った。父にそこがコヅカッパラの仕置場跡だと教わった。コヅカッパラというリズミカルな地名が、これまた印象的であった。 だがそれ以降も、電車から眺めるばかりで、眼前に仰ぐ機会はなかった。 だがさまざまな本で、画像は見ていた。高架線に挟まれた一角、巨大な石像がドンと据えられ、その手前にこれまた巨大な髭題目の碑が立っている。 髭題目の石碑は、京浜急行の、これまた車内から見える鈴ヶ森にもある。元禄期だったかに、篤志家が各地の仕置場に建立したのだそうだ。一体いくつ建てたのだろう。相当なモノイリだったのには違いない。 そんな次第で題目碑があるから、ここは法華の寺だとばかり思っていたが、実際境内に入ってみてビックリ! 月影杏葉紋が... 実は念仏寺だった。いやぁ行ってみないとわからないものですね。そして好きですよ、こういう宗派混淆ぐあい。 さて首切り地蔵。十分に巨大でしたね。土台も人の丈ほどもあろうか。もう仰ぎ見るほどだ。 今日は7月24日、こじつければ地蔵盆だ。風も孟夏とも違う感じがする。雲でさえ、だ。 あぁ季節も歳月も、流れてゆくのだなぁ。 お地蔵さん...
Read more小塚原 (こつかっぱら) 刑場は、江戸時代からお仕置き場として斬罪・獄門・火罪・磔 (はりつけ) などの重罪の刑が執行され、埋葬された死者の数は延べ20万人にものぼると言われているが、その受刑者の菩薩を弔うため寛保元年 (1741年) に地蔵菩薩が造立されたという。
お仕置き場は、刑罰や無縁、埋葬などに止まらず、江戸時代からペットの供養、名刀の試し切りや腑分け (解剖) に至るまで実に多彩な役割を明治期まで担った。実は、山谷エリアでもある南千住2丁目から5丁目は、日本の近代医学のスタートの地だったともいえ、オランダの医学書を入手した杉田玄白らが、この地で刑死者の腑分け (解剖) するところを見学し、ターヘル・アナトミアの解剖図の正確さを確認し、教科書に必ず載っている日本最初の西洋解剖の翻訳書「解体新書」 を作るきっかけになったという。
ちなみに、この地で最後の斬首刑に処せられたのが毒婦の異名で知られるあの高橋お伝であったと延命寺のリーフレットに書いてある。「高橋阿伝夜刃譚」のモデルにもなったお伝の墓は、安政の大獄に関わったとされる吉田松陰、橋本左内や鼠小僧次郎吉、腕の吉三郎などの墓と共にJRガード脇回向院内の墓地の史蹟エリアに並んでいるが、最近では日本のプロレス創生期にアントニオ猪木らを厳しく鍛え「プロレスの神様」と呼ばれたカール・ゴッチの墓も史蹟エリアに祀られている。
延命地蔵 (地蔵菩薩) 、またの名を“首切り地蔵”と呼ばれる高さ3.6㍍の座像は、山谷地域の中心点である、「泪橋交差点」からは北へ300㍍の東京メトロ日比谷線の南改札の前ある「延命寺」の中に入れば誰でも見ることが出来る。フランスのガイドブックにこの首切り地蔵が紹介されているせいか時たま外国人旅行者がカメラを向けているとことを見掛ける。 この大きな地蔵は、27個の花崗岩の寄せ石作りの像で、元は南千住の貨物線の南側辺りにあったものを、明治28年 (1895年)...
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