江戸時代の上杉家の城。鳩がたくさんいました。天守閣などは復元されていません。
米沢城が最初に築かれたのは、鎌倉時代中期の暦仁元年(1238年)と伝えられる。鎌倉幕府の重臣・大江広元の次男・長井時広が出羽国置賜郡長井郷の地頭として赴任した際に築城されたと推定されているが、これを実証する史料や遺構は確認されていない。時広は赴任地の地名から長井姓を名乗った。以後、長井氏の支配が150年近く続いた。
8代広房は室町時代初期(天授6年(1380年)、応永9年(1403年)、応永20年(1413年)などの説がある。)に、伊達宗遠に侵略されこの地を追われた。以後、安土桃山時代までここは伊達氏の支配下に入った。天文17年(1548年)伊達稙宗・晴宗父子の対立である天文の乱を経て、晴宗は本拠地を桑折西山城より米沢城に移した。晴宗から輝宗、政宗と当主が変わっても本拠地として使用された。米沢に城下町が成立したのはこの時代と考えられる。
天正17年(1589年)政宗は蘆名義広を破り、蘆名氏を滅亡させると黒川城(114万石)に本拠を移し、晴宗の弟にあたる宗澄ついで宗清を城代に据えた。しかし、豊臣秀吉はこの会津攻略を認めず政宗から召し上げたため、翌年には本拠を米沢(72万石)に戻すことになる。天正19年(1591年)政宗は豊臣秀吉の命により岩出山城(58万石)に移った。 置賜郡は伊達氏に代わって会津に封ぜられた蒲生氏郷の支配するところとなり、重臣・蒲生郷安が米沢城主(7万石、蒲生家中で最大)となった。郷安はこの時、城の改修を行っている。文禄年中に白子神社が米沢城鎮守となる。慶長2年(1597年)氏郷の子、秀行は下野国宇都宮に移封となり、会津には越後国より120万石で上杉景勝が入封し、米沢城主には重臣・直江兼続(6万石、与力を含め30万石とも)を置いた。
上杉神社内に設置されている米沢城下復元鳥瞰図。享保10年の絵図を基に制作。
慶長5年(1600年)秀吉の死後、豊臣氏への恩義から徳川家康の専横を「直江状」という文書によって弾劾し徳川氏への宣戦布告に及んだ。会津討伐を受けたが、家康は小山で石田三成挙兵の報に接してい引き返し、上杉軍は直江兼続を総大将として米沢城より北上し東軍最上氏を攻める。しかし、関ヶ原の戦いでの西軍の敗戦により、軍を米沢城へと引き上げた。これらの戦いにより上杉氏は置賜地方と陸奥国伊達郡・信夫郡30万石(実高51万石)に減封され、米沢を居城(信達(しんたつ)両郡の福島城・梁川城には本庄氏・須田氏・芋川氏などを置く)とした。以後、明治維新まで米沢藩上杉氏の居城となった。 慶長13年(1608年)景勝は兼続に命じ城の大改修を行い、慶長18年(1613年)輪郭式の縄張りを持つ城が完成した。大勢の家臣団はなお城下に収まりきれず、城下近郊の原野であった東原・南原に配され、下級家臣の侍町「原方」が形成されたのも米沢藩の特色である。 寛文4年(1664年)3代綱勝が嗣子を定めないまま急死し、綱憲が末期養子として認められ藩は存続したが石高は15万石(実高28万石)に半減された。しかし、石高が減ったのに、藩士の召し放ち(解雇)が行われず、藩の財政は更に逼迫することとなった。城外には新たに原方と呼ばれる地域を設置し、城下に収容できない下級藩士を配置し、半農生活を営ませた。
9代治憲(鷹山)は、藩政改革で財政の再建を果たした。なお治憲の隠居所である餐霞館は三の丸にあるが、これは支候御殿を転用したもので、治憲死去後に支候御殿に戻る。次代の上杉治広も蘭学医術など学問を奨励するなど、文化7年(1810年)に「政治向き格別に行届き、領内治め方よろし」等として表彰。続く上杉斉定も天保7年(1836年)に表彰されている。 上杉斉憲の代にも幕府から表彰され、18万7千石に加増された。斉憲は京都で西国雄藩とも交わり、文久3年(1863年)には徳川家茂の京都上洛に御供して二条城警護にあたる。
戊辰戦争では、藩が改易される窮地を救った会津藩主保科正之への恩義もあることから奥羽越列藩同盟に加わり、同盟を主導した件で4万石を減封。 明治2年(1869年)、版籍奉還により上杉茂憲は、米沢藩知事となる。米沢新田藩を併合し、米沢藩の最終石高は15万7千石(実高35万石)。 明治4年(1871年)廃藩置県により米沢県が置かれた。同年、県域の調整(屋代の再編入、分領支配の終了など)があり、置賜郡全部を県域とする置賜県が発足。...
Read more別名 舞鶴城、松ヶ岬城 城の型式 輪郭式平城 天守閣 御三階櫓2基(3層3階層塔型) 本丸、二の丸、三の丸からなる城。10基の2重櫓と17棟の門が備わる。
・米沢藩史… 上杉神社からの続き…
そんな時に大事件が起こる。 元禄15年(1702年)時は5代将軍徳川綱吉公の治世。吉良上野介義央(きら・こうずけのすけ・よしひさ)が江戸城の松の大廊下で、播州(現在の兵庫県)赤穂藩藩主の浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみ・ながのり)に刃傷(にんじょう)に及ばれ、義央は額に刀傷を負ってしまう。
所謂、「忠臣蔵」。長矩は即日切腹、しかも屋敷の庭で…。普通大名はどんなに小さな大名でも屋敷の中で切腹するものだが、これはとてつもない屈辱で、しかも義央には一切お咎めなしであった。江戸時代、喧嘩両成敗という法律があり喧嘩をした両方に厳しいお咎めがありました。これに旧赤穂藩四十七士の浪士達は、吉良家に討ち入りを行いました。 (因みに、作中に登場する吉良家江戸家老の千坂兵部は事件以前に死去しているため、中には色部又四郎に差し替わっている物語もありますね。)
この事件後に綱憲は病気になり死去、跡を吉憲に譲り、吉憲は享保7年(1722年)死去。吉憲の跡、宗憲が継ぐも享保19年(1734年)死去。宗憲の弟、宗房が継ぐも延享3年(1746年)死去。
宗房の跡は、弟重定が継ぐ。 重定は暗君として有名で、藩政を省みないで遊興三昧に明け暮れ、米沢藩の財政は危機的状態になる。もはや破産寸前。 重定は上杉15万石を幕府に返上しようする。米沢藩存続のため下級武士の森平右衛門利直を350石取りに昇進させ、藩の危機的状態を変えるように命令を下す。利直は森の租税や、郷村地への統制強化を図り年貢増強を図った。一方で利直は親類縁者を側近にしたり人事専横を行ったため政治が腐敗したため、上杉家家老の竹俣当綱(たけまた・まさつな)から誅殺される。
重定のあと、日向国(ひゅうがのくに、現在の宮崎県)高鍋藩秋月家3万石より、治憲が9代藩主として米沢に入る。この治憲こそが鷹山公その人である。九州の小藩から、名門上杉家に養子として迎えられるも、治憲が愕然とする。すでに破産寸前だったからだ。治憲は藩主就任から大倹約令を発布。そして自身の生活費切り詰め、奥女中の大量リストラ、養蚕奨励、籍田の礼、世襲代官制廃止、備蓄20ヵ年計画、殖産興業奨励を図った。当然、いきなりこのような厳しいことをいわれ上杉譜代の藩士から反対されるも、老臣を処分、また腹心の竹俣当綱も処分を行い、自分の政策に従わないものはこうすると見せしめを行い。藩政改革を成功させる。
天明の大飢饉で藩政が停滞したのを機に隠居し、号を鷹山にし身を引こうとするも、10代藩主治広や、11代藩主斉定から、鷹山公が必要と望まれたため藩政に留まり、鷹山式政治を継続する。
借財返済の延期懇願、財政支出の大幅緊縮、等級(上級・中級・下級武士)の区別を無くし有能な人材の登用、財政再建16ヵ年計画、農村復興計画、上書箱設置(目安箱のようなもの)、領民保護、福利の充実で破産寸前だった藩の金蔵は不死鳥の如く復活を遂げ、米沢藩の所領15万石に対し内高28万余石になる。
12代斉憲は佐幕派として京都護衛任務を任され、3.7万石を加増される。 会津藩と新政府軍との仲介役を務めるも、新政府軍から裏切りの嫌疑をかけられ、成り行きで奥羽越列藩同盟に参加させられてしまう。その後、新政府軍の有利となり、土佐藩主の山内豊資(やまのうち・とよすけ)に仲介してもらう形で新政府軍に恭順し、会津若松藩の松平家にも新政府軍に恭順するように説得をする。戦後の処置で18.7万石の領地から4万石を減らされ、14.7万石となる。しかし、このような時に鷹山公の時代につくられた米沢新田藩1万石を吸収合併し難を逃れる。
版籍奉還時は、明治政府の改革を積極的に取り入れ、朝敵の汚名をそそぐ。
明治4年(1871年)廃藩置県により、米沢県→置賜県→山形県となる。上杉家の茂憲は伯爵位となり東京府へ。後に沖縄県令(知事)となる。
・米沢藩江戸屋敷所在地 上屋敷…東京都千代田区霞ヶ関、現在の法務省付近
中屋敷…東京都、六本木一丁目から麻布台一丁目付近
下屋敷…東京都、白金、白金二丁目付近
19世紀の探検家で写真家のイザベル・ルーシー・バード・ビショップ(英国)は米沢を東洋のアルカディア(理想郷)と評している。
・藩主以外にも有名人が…平田東助、品川弥二郎(内務大臣、内大臣)、建築家の伊東忠太。
・米沢藩家老 米沢武田家…序列1位。旧甲斐武田家の信玄こと晴信公第6男から続く。3300石 現在も存続。
竹俣家…序列17位。佐々木盛綱を祖とする 1000石。フジテレビの竹俣紅さんの祖先にあたる。
・今もなお、上杉治憲(鷹山)公の言葉 「成せばなる、成さねばならね何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」は米沢の財である。
アクセス JR山形新幹線、奥羽本線、米沢駅から、市民バスもしくはヤマ...
Read more伊達氏、上杉氏等史跡 続日本100名城 舞鶴城、松ヶ崎城ともいう。 2019年7月13来訪。
米沢城は、1238年、鎌倉幕府の大江広元の次男、長井時広により築城されたと推定されている。 室町時代に入り、伊達政宗の祖先、伊達宗遠により長井氏が追われ、同地は伊達氏の支配下となり、1548年の天文の乱を契機として伊達晴宗が桑折西山城から米沢城に本拠地を移した。 1589年、伊達政宗の代に、蘆名氏を滅ぼし、黒川城に本拠を移すと、米沢城は伊達晴宗の弟で三代に亘り伊達氏に仕えた重鎮の宗澄、ついで宗清が城代となるが、豊臣秀吉から蘆名氏への攻撃を惣無事令違反として咎められ、蘆名領は蒲生氏郷に与えられ、1591年には伊達氏は岩出山城に移される。 米沢も蒲生氏の支配下となり、蒲生郷安が城代となるが、1995年、蒲生氏郷が病死すると蒲生秀行が跡を継ぐが、重臣たちの諍いにより、1597年、蒲生氏は下野宇都宮に転封となる。
代わりに会津には越後から上杉氏が入封し、米沢城には上杉氏の重臣、直江兼続が置かれた。1600年の慶長出羽合戦では、上杉氏は西軍として、直江兼続が総大将となり米沢城から最上領へ攻め込むが、関ケ原の戦いで西軍が敗れると、上杉氏は軍勢を米沢に引き揚げ、敗戦を迎えた。この敗戦により、上杉氏は120万石あった領地を置賜地方、陸奥国伊達郡、信夫君の合計30万石に減封され、以後江戸期を通じ、明治維新を迎えるまで米沢城が上杉氏の本拠地となった。
上杉氏は大身であった頃の家臣団を、所領が4分の1になったにも関わらず、家臣をなるべく解雇せず、そのまま米沢に連れてきた。その為、他藩と比して下級武士の数が圧倒的に多く、必然与えられる知行も低く抑えられていたが、これら家臣の数は藩財政を圧迫する要因のひとつであった。 収入源であった佐渡銀山を失った事も、財政を悪化させた。 初代藩主上杉景勝と直江兼続は、下級武士を手狭な城下町の外に住まわせ、半士半農の生活をさせ、景勝の跡を継いだ2代藩主上杉定勝の代に、新田開発により表高30万石を実質51万石まで開発した。 しかし、3代綱勝が継嗣を定めないまま26歳で急死した事により無嗣子断絶の危機に陥り、綱勝の岳父である会津藩主保科正之の奔走により、15万石に減封される形で上杉氏は存続するに至った。だが、これにより、一層財政状況が悪化し、末期養子として跡を継いだ綱憲や、8代重定の失政等により、財政は窮迫し、幕府へ領地を返納する事も真剣に検討された程であった。一方で、このような状況にありながら藩政改革は全く手が付けられないまま放置され、一部の重臣が実権を握り、人事、賞罰を独断専行する等、藩政は腐敗し、まさに米沢藩は、ボロボロの状態であった。18世紀半ばの米沢藩の借財は、今の価値にして、150億から200億円だったという。
このような成す術が無い米沢藩を、1767年に継いだのが、日向高鍋藩秋月氏から養嗣子として迎えられた9代藩主上杉治憲(鷹山)である。 治憲は、財政難と政治腐敗の米沢藩を再建する為、家老竹俣当綱や莅戸善政を重用し、先代の重臣らと対立しつつも、大倹約令の発布、藩主の生活費削減、奥女中のリストラ、殖産興業の振興、虚礼の廃止、細井平洲、神保綱忠による藩校興譲館の再建による学問の励行を実施した。それらの改革は、治憲が家督を譲った後も藩主の後見役として、10代藩主治広、11代藩主斉定の代まで至り、斉定の代に上杉氏は借財を完済した。1802年、治憲は剃髪し、鷹山と号する。1822年死去。 鷹山は、同時代、寛政の改革を行った松平定信からも評価され、鷹山が死去した際、定信は「三百諸侯第一の賢君が亡くなられた」と、その死を惜しんだ。 アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディが、日本で一番尊敬する人物として上杉鷹山の名前を答えた逸話は有名である。
現地に行ってみると、戦国時代に精強を誇った上杉氏の城としては、立派な水堀や、土塁はあるものの、小さな城である事は否めない。財政が困窮していて城の拡張なんてできなかったのだろう。しかし、この城の魅力は、むしろその質実剛健さにあるのかもしれない。 米沢城に移封する際、家臣を召し放ちせず可能な限り雇い入れた事も、後々の事を考えれば困窮する事は目に見えているが、そうはしなかった。 そして上杉氏は、30万石の身代なら本来多くても9000人の兵力しか供出できないところ、大坂の陣において2万人もの軍勢を率いて出陣したのである。これぞ武門の誉というところでしょうか。大きな城は必要ないという事でしょう。武田信玄の躑躅ヶ崎館に通じるところがありますね。 しかし、城内には、上杉謙信公をご神体とする上杉神社の他、謙信公の遺骸を安置していた場所である「上杉謙信祠堂」「伊達政宗公生誕の地碑」「上杉鷹山公之像」等、米沢の長い歴史を物語る史跡が配されており、それだけで時間を忘れて楽しむ事ができる。 東隣にある上杉博物館の展示も良いので、併せて観光...
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