上杉氏史跡 2019年7月13来訪。
林泉寺は、1497年、上杉謙信の祖父で越後守護代であった長尾能景が、その父である重景の為、現在の上越市内に建てた曹洞宗のお寺で、以後長尾氏の菩提寺として、謙信が上杉氏を継いでからは、上杉氏の菩提寺として厚く庇護を受けた。上杉謙信も7歳から14歳までの間、同所に預けられ学問を修めた。
景勝の代になり、上杉氏が会津、さらに関ケ原の戦いの後、米沢に移封された後、上杉謙信の姉である仙洞院が、林泉寺14世、万安大悦を招いて、米沢に林泉寺を建立した。 上杉氏代々の藩主は、上杉氏廟所に祀られている事から、林泉寺にはその奥方や家臣の墓所がある。また上杉氏代々の菩提所でもある事から、大きな影響力を持っていた。 林泉寺に葬られている代表的な人物としては、仙洞院、菊姫等の身内の他、直江兼続夫妻、甘粕景継、水原景憲等の上杉氏配下である。 なお、直江兼続夫妻の墓については、元々直江氏は徳昌寺を菩提寺として、同所に墓があったところ、林泉寺と徳昌寺が僧録という寺院を統括する立場を争い、結果林泉寺が僧録となり徳昌寺が廃寺となった為、直江兼続夫妻の墓も林泉寺に移されたそうである。
林泉寺を米沢に建立した仙洞院については、謙信の姉、景勝の母であり、夫長尾政景が野尻湖で溺死した後は、謙信に春日山に招かれ、移り住んだ。御館の乱では仙洞院の娘婿である上杉景虎と共に御館に籠り敗れるが、春日山に戻り景勝の庇護を受けた。上杉氏の会津、米沢への移封にも付き添い、林泉寺の建立に尽力した事から中興開基と称されている。直江兼続を景勝に紹介したとも。
甘粕景継、水原親憲も面白い人物なので、ついでに紹介。 甘粕景継については、謙信、景勝に仕えた、上杉二十五将に数えられる武将で、謙信の指示で断絶した甘粕家を継ぎ、護摩堂城主、五泉城主を経て、庄内酒田城代、白石城代と、最上氏や伊達氏に接する重要な城を任される。が、景勝の命で会津に参府中のところを伊達政宗により白石城を奪われ、以後景勝に冷遇されたと言われる。軍記物では家康は冷遇されている景継を高く評価しており、2万石で家臣に迎えようとしたところ、景継は、冷遇は自分の責任であり罰ももっともな事であり、それに今更二君にまみえる事はできない等と丁重に断った。それを聞いて家康はなおさら景継を惜しんだという。
水原親憲も謙信、景勝の二代に仕えた上杉二十五将に数えられる武将で、第四次川中島の戦いや御館の乱で活躍し、その後一次蘆名氏の下に身を寄せるが、1583年、越中国での功績で知行を得、景勝の指示で断絶した水原氏の名跡を継ぐ。上杉氏の会津への転封で猪苗代城代となり、慶長出羽合戦では長谷堂城の戦いに参戦し、鉄砲隊を率いて撤退戦を成功に導いた。大坂の冬の陣にも参加し、鴫野の戦いで鉄砲隊を率いて大活躍をした事から、徳川秀忠から感状を賜ったが、「子供の石合戦ごときのような戦で、感状を賜ることになるとは」と喜ばなかった。 またその感状の名前が「水原」ではなく「杉原」と誤記されていたので、感状の誤記はそのままに名前を杉原に改めたという。剛毅な人...
Read moreFollowed by English translation 資料館は是非、見ていただきたいです。係の方が、解説してくれます。この解説が、楽しく、分かりやすいです。こんな風に解説してくれる方がいると、歴史的背景を知って、みんなもっと興味を持つと思いました。
林泉寺は、上杉家の当主以外、例えば当主の奥方や家臣(有名どころでは直江兼続)を祀っているお寺です。元々は、長尾家の菩提寺で、最後に残っていた、謙信公の姉である、仙洞院とともに、越中の春日山の中腹にあったものを米沢に移してきました。
ご本堂には、越中から移っていただいた仏様が鎮座し、毘沙門天像が祀られています。 また、その隣の部屋には越中林泉寺の山門の春日山や第一義の拓本(謙信公の書)が飾られていますが、迫力を感じます。
お庭も美しかったです。紅葉の時期はとてもきれいだそうです。
Please take a look at the museum. The person in charge will explain. This explanation is fun and easy to understand. I thought that if there was someone who could explain it like this, people would be more interested in knowing the historical background.
Rinsenji is a temple that enshrines other than the head of the Uesugi family, such as the wife and retainers of the head of the family (most famously Kanetsugu Naoe). Originally, it was the family temple of the Nagao family, and it was moved to Yonezawa along with Kenshin's older sister, Sento-in Temple, located halfway up Mt. Kasuga in Etchu.
The main hall enshrines the Buddha who moved from Etchu, and the statue of Bishamonten is enshrined. Also, in the room next to it, the temple gate of Etchū Rinsenji, Mt.
The garden was beautiful too. It is said to be very beautiful during the fall...
Read more春日山 林泉寺(かすがさん りんせんじ)は、明応5年(1496年)、越後守護代の長尾能景(ながお よしかげ → 越後長尾氏6代当主。越後守護代。上杉謙信の祖父)が、亡父重景(しげかげ)の道徳を後世に伝えようと、蜂が峰(上越市春日山)の麓(ふもと)に開基建立した曹洞宗(そうとうしゅう)の禅刹(ぜんさつ→禅宗の寺)です。
米沢藩上杉家の家祖である上杉謙信が幼い頃に学んだお寺でもあります。謙信の幼少期の名前は虎千代で、わずか7歳で仏門に入りました。
開創時、長尾氏の菩提寺(ぼだいじ)であった林泉寺は、開基家三代目 景虎(かげとら→謙信)が上杉を受け継いだことで、以降、上杉氏の菩提寺となりました。
やがて景勝の代になると、慶長3年(1598年)に豊臣秀吉によって会津120万石へ、関ヶ原合戦の翌年の慶長6年(1601年)には家康によって米沢30万石へ次々に転減封(てんげんぼう)されたことで、林泉寺も会津を経て現在地(米沢)に移転建立されました。
墓所には、米沢藩初代藩主 景勝の正室 菊姫(きくひめ→武田信玄の五女)をはじめ、歴代藩主夫人や一族の墓、近世米沢城下町開創の名宰相 直江兼続夫妻、武田氏一族滅亡の際、姉 菊姫の夫 景勝を頼り、上杉家に身を寄せた武田信清(信玄六男)の墓もあり、戦国の乱世を経て結ばれた縁を偲ばせてくれます。
そのほか、近世史上を彩った武将・学者・鉄砲師などの著名人物が祀られ、静かな佇(ただず)まいの中、後世に何かを語りかけています。
直江兼続と正室 お船の方(おせんのかた)の墓は当時としては珍しく、夫と妻が同じ大きさの墓となっていて、今も2人は共に寄り添って眠っています。
兼続は博学多識で、天文地理・軍学・経済学等...
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