玉泉寺は「宝登山神社の管理寺」でしたので昔は同じでした。以下に寺の説明板があったので読み出しました。 神社にはきれいな彫刻がたくさん見えます、寺の方もすごいだろう!と思っていますが、時間無く入口を少しのぞくだけとなりました。
本堂は文政12年(1829)の再建なので、欄間彫刻(高野山開創等)も同年と思われます。 ーーーーーーーーーーーーーー 玉泉寺の沿革
平安時代の永久元年(一一一三) 僧空圓は、日本武尊が山頂にて神霊を奉斎し、弘法大師が来錫のおり、宝珠の山頂に向かって飛翔した神变に感応され、仏庵を営んだとも伝えるこの地こそ、仏堂建立に相応しい地とされ「玉泉寺」を開基した。 現在、真言宗智山派に属し「会慶山」と号し、本堂には寛文七年(一六六七)造立の地葳菩蕯を本尊と安置し、現在境内には 護摩堂、十王堂 (墓地內)、鐘楼(鐘は大東亞戰の金属供出にて現存せず・鐘楼は平成二十九年暴風雨により倒埭)、「仁義」の額を掲げる山門などの施設が建てられている。 開基以来、「玉泉寺」住戰は別当として「寶登山大神=宝登山大権現」の神にも仕え、 神仏を共に敬い祀るその関係は明治(一八六八) の「神仏分離令」が出されるまで続いた。
歷代住職のなかでも江户末期、第四十六世栄乗は、京都御室御所の院家格を赐わり寺格を高めると共に、寶登山講社組織を拡充し、弘化四年(一八四七) 熊谷宿石原に「宝登山道 江户講中初登山」の遺標を建て、また神社社殿再建事業を推し進め現社殿を建立し、今日の神社の礎を築いてきた。 明治初年、寺と神社はそ扎ぞれの教を説く宗教活動を行なうこととなるが、今でも一つ境内の如く、寺と神社はお互いに補完しあう関係を保ちつつ、手を携え、渋沢栄一翁奔が「宝登山は千古の霊場」と称えられた宝登山を守っている。 現在の本堂は江戸後期の再建と伝えられ、格天井に描かれた飛天図 (二十五面)をと弘法大師一代記 (十二面)、十六羅漢、...
Read moreあれ?ここって宝登山神社なんじゃないの、と思ったあなた。神仏習合の絡みでそうなっているのです。日本は神仏の国なのです。その件はネットで調べてね。明治政府の廃仏毀釈って千年以上も仏教を推進してきた皇室に対する無礼極まりない振る舞いのようにも思えるんですけど。某藩なんて歴史の上で初めて御所に大砲ぶちこんでるもんなぁ。それって、尊王?京都 や江戸でのテロ行為の挙句、文化財破壊の 蛮行に及ぶなんて、文化財やバーミヤン大仏を破壊するタリバンやISとどこが違うの、と思うんですけど。日本ってテロリストが国を乗っ取った国 なんじゃね、その延長線上に、半世紀後の日中戦争や太平洋戦争が起こったんじゃね、と思うのは私だけでしょうか。ここの社殿の彫刻は良い。ミシュ...
Read more宝登山神社の駐車場奥にあるかつての別当寺です。宝登山神社の参拝客のうち、ここまで足を運ぶのはほんの数パーセントと思われますが、玄関向拝の彫刻と天井画、本堂内陣を飾る弘法大師の生涯を彫り刻んだ欄間はなかなかのもので、素通りするにはもったいない見ごたえです。 明治政府の神仏分離令により古来一体であった寺院と神社の関係は別物となりましたが、宝登山神社と玉泉寺は貴重な例外のようで、宝登山神社の社務所と玉泉寺本堂は渡り廊下でつながっていて、本堂参拝の受付は社務所となっています。さりとて建物が残っているだけの神社のおまけでもなく、智山派の現役寺院です。 遠方よりわざわざ足を運ぶには微妙な見ごたえではあるものの、宝登山神社とあわせてで...
Read more