長い引用に成りますが、大切な古文書の写しなので全文記載します。私の清水中世史研究所からです、是非参考にして頂きたいです。
八王子市の南朝関連古文書「散田村開発記」と鈴木氏
「散田村開発記」は散田寺上の串田家に保存されていた古文書で、大正十五年串田家の親戚に当る小松茂盛氏がその写本を謄写刷りしたものである。
此書は自分家に申伝へあり享保度々古き仁達に聞置候昔の訳相調候分は皆記置也、御水張辺りに有所の字 の訳能に見合得心あるべし、六人の開発主の外は武士也、其の下々は平士足軽家来筋也 于時天保十三壬寅年二月寫え 散田村開発本説 散田村は後醍醐天皇御宇元弘元年相模入道高時奢を極め内裏を蔑にし帝を配隠列京鎌倉との大軍起り大乱となり依之天台座主法親王大塔宮征夷大将軍と被為成候程の戦ひ也、其の時忠臣有之隠岐国より御帰参になり萬里小路大納言藤房卿近臣之故、帝之御附申被参候帰参の上伝奏も不行届世を見切遁世勅願所山田広園寺開山俊翁和尚之御弟子沙弥圓心被片倉城主永井備中守大江諸親は妹聟也 藤房の子息を領分の内辺くまん笹の原中へ城主の力を以って切開き家作り、扶持米送り被遺候ての隠家也、場所は御制札の畑也 其の後二十年も打ち過ぎ候所に小山判官殿は天皇の若宮御一方真言宗之座主御室之御所御守護にて御所水の御隠家となる。其の節宮方之近き公家衆四人御つれ被成候。此の四人の方は小浦、田倉、木下、谷合の御先祖也 其の場所は峰尾は御所水を開き、谷合は正の目を開き、木下は黒木下を開き、上散田の小浦は上ノ開戸也、田野倉は椿開戸、笹原の所を各分けとり開発いたし候也、是を散田村六人の主人と言う。 片倉も広園寺も高氏の方にて軍役を致す也、此の六人は寺の且方也御所水は武将之事、ゆえに財宝もあり人数も被持候ゆへ俊翁和尚遷化の時葬礼惣奉行を被成御取持有之候に付寺の旦頭にて毎年三月六日開山堂霊前え詰居候て世話有之候先例也。商人見世迄も支配有之候由 扨又小山判官殿は軍の旗色を見合え処判官様小浦宅へ出御、御病気重り終に上の開戸にて薨す。宅間紀所開戸の内「ほうで」べ葬る、陵の印に楠を植置候事也 当村元来は御制札前の道本道也、山より離れ家作也、水は山きしにある清水を汲み取用候也、堀り井戸の事昔これなし、其のじぶん地むくり風という悪風度々起り家居を吹潰し候ゆへ山わきへ移り候也 上開戸の小浦は上散田へ移る、野崎は同所山きし「かたそ」へ移る、田倉は其のまま、木下は黒木下に移る、谷合は正の目也、如斯に隣も離れて遠し、 其の頃南方敵にても時宗の坊主に□□□□は不殺旨を聞内庵に福寿院と云う寺を建立し十王堂迄立候事也、隠れ穴を掘り用心を致す程の事なれども高氏公より国中へ御触有之候へば南方方の敵にても時宗坊主になり候ものは決して不可殺旨御座候、然る所四人の公家方(小浦、田倉、木下、谷合)は御名前御隠し被成十五代の内は忍隠れのゆへ御名前一切相知不申候事、南北天下二つに分れ年号別々也、応永五年迄に漸く一天下に定まる。 中村の内中古より片巣と言うは慈根寺落城之節氏照公の御隠居御二方にて御老母様白雉一羽御持被成夜中忍落御出被成候故其の時より「かたそ」と云う也---時宗寺とはとう場と申事也、時宗なれども福寿院の事は福泉寺と也、寺を八谷戸へ引上げ跡は畠となり中古木下舎人引越市左衛門家は兵次家になり桓兵衛は同家の分地文蔵は市左衛門分地也仁兵衛は下谷戸佐五左衛門方之分家也、 北条家の時には八王子十八代官衆あり由木には諸星源左衛門殿被居候屋敷跡也、此仁子安村へ引越に付上り地となる、 源左衛門殿跡諸星万之助殿と申て分は北野村に九拾弐石知行有り御蔵前弐百俵御旗本にて、是は当主の名前也、先年は山入村妙福寺旦方也、 扨て嶋村図書殿之事は慈根寺落城之時奥列之御預り之所相渡本国に帰り親類衆設楽勘左衛門殿え落被参同隠に有之處諸星之上り屋敷跡え被参候様縁者に付源左衛門殿の跡屋敷之招寄候事也浪人にて達人に付名主役相渡候事図書殿には男子二人あり総領豊後舎弟は親左衛門分家に成候処之奉行書参り候処親左衛門殿水戸様御用人え被召出備後殿は御制札之北の方は諸星源左衛門殿之手代屋敷也其跡栗之林の処を不残新地迄四角に場所をとり家作引移り長安寺を内庵に取り立て図書の法名を以って寺号となし地所分け拾石之稲荷□親御朱印地に願候事也、氏照公随身の旗本は上散田は河合将監殿、下散田は原主計殿也、中村ほうでは田中氏有り是は甲列にて奥向の旗本也、下散田開発は石川太郎左衛門殿先祖也、瀧山之城主大石源左衛門殿親類内にて娘に眼病人あり名をちようと申候事拝島大日如来信佛にて眼病平癒いたす依之源左衛門殿御開基也、 上散田川井淡路殿之事は山田広園寺境内に住居也、 高宰明神は案察使大納言信房卿と申御公家也、京都に悪人の臣下有て賢異故に被憎候ゆへ終に配流と被為成杉山峠に配流あり、橋本の宿の上に御殿と云う所あり、片倉城主、広園寺境内へ引移し古座主明神を祭り也山田の鎮守とあがめ候、鈴木馬之助、川井淡路両人は忠臣之人達内へ附てまわり候、然る処に御寺も高氏十五代引続き軍役を勤め候に付知行を上げ次第に衰へ候に付山田を止て上散田の場末に来り則明神を古明神之所へ引移す、其の時より高宰明神とあがめ村内の鎮守とする也、引時は冨蔵と幸助との脇に道あり是を中打手を古明神に引候事也、神主は鈴木馬之助其後同人は散田を止て川原の宿へ引越川原の宿にて白山権現を祭り神主にて有り依之鳥居は今宿に有、今社は長房也、川原の宿を止て駒木野宿へ越し鈴木佐次衛門家是也、川原の宿は元長房也、設楽氏椚田村にする、当峰尾家は御所水より甲列え随身被成、信虎公の御行跡悪敷を見て不仕本国摺指之浪人其時子共衆三人あり、次男は案内や、三男は当所也、……以後略
浅川宮諏訪大明神御縁記は享保拾年(1725)乙巳春卯月に、鈴木左京武豊によって書かれたものである。この人の先祖が鈴木馬之助であろう。 新陰流の祖、上泉信綱の高弟に神後伊豆宗治がいる。武蔵国八王子の地侍の子に生まれた(慈根寺の地)。師信綱に従って諸国を遍歴して武芸修業に励み、奥義を極めた。元亀二年(1571)京都で将軍足利義昭に兵法を授けてのち、その師範となった。其の後関白豊臣秀次の師範を勤めたという。その時、神後伊豆は母方の姓鈴木意伯を名乗っている。のち秋田佐竹家に仕えたとも、尾張徳川家に仕えたともいわれるが生没は不明である。この母方の鈴木氏は大石氏や北条氏照に仕えた人々であろう。鈴木中務丞・鈴木周広・鈴木弥五郎がいる。また、八王子城で討死した人々の中に(相即寺過去帳)鈴木佐渡守・鈴...
Read more臨済宗南禅寺派の寺院で、縁起では康応元(1389)年の創建とされる。開基は、鎌倉幕府の政所初代別当の大江広元の後裔である大江師親と伝わり、山門や仏殿の屋根には大江家の家紋「一文字に三つ星」が記されている。この家紋を見て、戦国大名、長州藩主の毛利氏を思い出す人もいるだろうが、これは毛利氏がもともと大江氏の出であることによる。
当寺は豊臣秀吉の小田原征伐に際して兵火に遭い、境内建物が焼失したものの、すぐ後の慶長年間に豊臣家重臣・浅野幸長の寄付により再興。寛政4年(1792)には放火により再び境内建物が焼失してしまうが、文化~天保年間(1804~44)に建て直された。ちょうどその頃に編纂された武蔵国の地誌『新編武蔵風土記稿』には、境内1万坪、寺領53万坪、塔頭40余か寺と末寺100か寺を擁していたと伝えられているように、当地を代表する寺院であった。
文化~天保年間に建て直されたという総門・山門・仏殿・鐘楼(附・銅鐘)はいずれも東京都指定有形文化財になっている。また、境内は丘陵を背にして南に面し、仏殿・山門・総門が北から南へ一直線上に並び、仏殿東前に鐘楼があり、石垣で一段高くなった本堂・庫裏・開山堂が東西に接続している。これは禅宗寺院様式の伝統的な伽藍配置であり、現代...
Read more最寄り駅 京王線 山田駅 徒歩10分程 拝観料は無料
本尊 本堂:地蔵顔王菩薩 仏殿:弥勒菩薩 臨済宗南禅寺派の寺院である。 山号は兜卒山(とそつざん)
新編武蔵風土記稿によれば、康応元年(1389年)8月、大江広元の後裔である片倉城主大江師親が峻翁令山を招聘して創建したとされる。ただし、この伝えには確証はなく、開基については他にも諸説ある。一説には、大江師親の子道広の開基と言われ、また、「江氏系譜」によれば、大江氏惣領家(時広流)嫡流長井氏5代長井貞秀の次男長井広秀が康応元年(1389年)に開基したという。 寺域は十数万坪あったとされ、塔頭10か寺を有したが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐に際して八王子城落城と共に焼失した。その翌年、徳川家康から15石の朱印状を得て再興した。との事です
禅寺らしく総門、山門、仏殿など一直線に配列されており山門も立派な建物です。 特に訪れる人を拒みはしませんが積極的に招きもしない状態で観光の為のパネルとかは特には無くひっそりと佇んでいます。 余り人が来ないので苔がかなり有り苔を傷付けないようにするのに注意が必要で歩く所は限られまが、佇まいや雰囲気は...
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