1907年に発令された『癩予防ニ関スル件』を根拠に1909年に公立療養所第一区府県立全生病院が開設され1931年に『癩予防法』に改められ後に1941年に厚生省に移管されてから全生園と名となり、今日に至っている。かつてはハンセン病の患者を収容する名目で隔離された歴史を持つ場所ではあり、特効薬が開発され普及するまでは不治の病として扱われたこの病を藁をもすがる想いで入所したり、半ば強制的に入れられた入所者達が血を滲む想いをしながら逞しく生きていた場所でもある。戦後は長きに渡り患者たちが自由のための運動を展開していき、1996年に隔離の根拠になっていた『らい予防法』が廃止され、2002年に時の政府が控訴を断念したことで、ようやく国が責任を認める形で決着し平穏な日々を手に入れることができるようになった(今となっては碌でもないともアメリカの犬とも評されている小泉政権では唯一の英断とも言われている)。 施設内は元入所者の生活圏になっているがため居住区以外であれば誰でも入ることは可能。元が隔離政策の施設であることを後世に伝えるためか、中には資料館や案内板が設置されている。 17年近く不定期に訪れているが入所者の平均年齢も85を既に超え入所者数もかつて多い時で3000人超えていたが今は居住者も90人未満となり、次第にその役割を終えようとしている。一部施設が取り壊され広場に整備されたりと今後この場所がどのような場となるか気になるところである。 なお特効薬が開発されて以降も隔離政策が継続された背景にハンセン病の権威とされる人物や組織の方針も影響されているが、当時の日本人が抱いていたハンセン病患者に対する差別や偏見等の価値観があったことも留意する必要がある。不治の病が強調され感染症と流布された故の悲劇であるが、この教訓や反省を新型コロナウイルス流行の際に活かせなかったこ...
Read more8月の夕方、国立ハンセン病資料館を見学後、少し敷地内を歩かせていただきました。人影はほとんどなく、熱波とセミの音が強く印象に残りました。なお、居住棟敷地内や禁止とされた場所には立ち入っておりません。また、居住棟をクローズアップした写真は一切撮影しておりません。
この多磨全生園では、2024年5月1日現在99名の元患者さんが生活していらっしゃるとのことです(出典:資料館内パネル解説)。
かつて、患者さんたちは世間との接触を断たれ、国の主導で全国の療養所に絶対・終生隔離を強いられました。各療養所でのコミュニティだけが、人生のすべてになってしまったのです。
1947年にはハンセン病を治すことができる初めての薬が登場。しかし、病気から回復してもなお、療養所に入れ続けることを定めた「らい予防法」が廃止されたのは、平成の世の1996年です。ぞっとします。
敷地内を少し歩いたくらいで、元患者さんやそのご家族の方に寄り添える術もなく、無力感に襲われそうです。
この様な歴史の上に、今日の私たちの生活が成り立っている訳ですが、この歴史と反省が、新型コロナの騒ぎ(初動)で生かせなかった点は、私たち共通の認識として継承してい...
Read more治療薬が開発されていたにもかかわらず、隔離政策を継続した当時の権威と思われた似非医療従事者、国家、 同じ似非医療従事者、国家の過ちで昭和が終わるまで予防接種を回し打ちされた我々昭和世代、 3.11福島原発事故も政府発表は安全、建屋がぶっ飛んでいるのに?、であったがIAEAの調査ではチェルノブイリと同レベルの危険度と発表された、 どんなに正しい資料や現実を突き付けても気付かない、気付けない、聞こうとしない、理解しない、 逆走、踏み間違い老人のよう、 過去の事、他人事と勘違いしていると自身の身に降りかかる、 パンデミックや戦争も、この先、国家や権威があると思われている専門家が正しい判断ができるとは限らない、 強制を強いることのない自由選択の余地を残すことが重要かと、 都内で有りながら広大な園内が、新憲法の人権保障と国民の権利を踏みにじり、強制隔離を継続した犯罪の代償の大きさ...
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