さきたま神社
御祭神 前玉彦 前玉姫
看板猫 かわいい ガチカミカミしてきます🐈
木花咲耶姫を追いかける長い旅が終わろうとしています。
木花咲耶姫を祀る神社が前玉神社でありそのコノハナノサクヤの移動により富士山浅間神社が生まれさらなる移動により埼玉県の前玉神社(行田市)や埼玉(前玉)という地名がつけられ 埼玉県が出来ます。
一般的にコノハナノサクヤはニニギの正妃です、そのことは誰もが信じて疑っていないのですが九州の古代史研究者は「ニニギとコノハナノサクヤの婚姻関係は一年足らずでその後は豊玉彦(ヤタガラス)と一緒に暮らしている。…」としています
まずは一般的な理解のために 「ウィキペディア」から
コノハナノサクヤビメ 日向に降臨した天照大神の孫・ニニギノミコトと、笠沙の岬(宮崎県・鹿児島県内に伝説地)で出逢い求婚される。父のオオヤマツミ はそれを喜んで、姉のイワナガヒメ と共に差し出したが、ニニギノミコトは醜いイワナガヒメを送り返し、美しいコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミはこれを怒り「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神 の御子(ニニギノミコト)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約 を立てたからである。コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである(天孫降臨 を参照)。 コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神 の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産んだ(火中出産 を参照)。ホオリの孫が初代天皇の神武天皇...
Read more埼玉郡式内社4座の2座。 前玉神社(さきたまじんじゃ)。埼玉県行田市埼玉。 式内社(小)、旧社格は郷社。 社名の「前玉」は、「埼玉」の地名の語源と伝える。埼玉県北部の埼玉古墳群内に鎮座し、神社自体も浅間塚古墳の上に鎮座する。
主祭神:前玉彦命(さきたまひこのみこと)、前玉比売命(さきたまひめのみこと)。
資料によると、 創建は不詳。前玉神社は埼玉古墳群内に鎮座し、本殿も古墳群の方向に建てられている。これら古墳群の首長層が前玉神社における古代祭祀集団と推定され、古墳時代に古墳群を守護する形で祀られたのが創祀になると推測する説がある。
社名「前玉」の由来も明らかではないが、神亀3年(726年)の戸籍帳である「山背国愛宕郡雲下里計帳」(『正倉院文書』)にも「武蔵国前玉郡」の表記が見えることから、この「前玉」がのちに「埼玉(さきたま/さいたま)」へと変化したと考えられている。
『延喜式』神名帳では武蔵国埼玉郡に「前玉神社二座」と記載され、2座が式内社に列している。訓みには「サキタマ」と「サイタマ」の両方が付記される。 摂末社として浅間神社があります。
御祭神の前玉彦命については、 埼玉古墳群にある稲荷山古墳から出土した稲荷山鉄剣は(墳頂部中心軸からは少し離れたところから)、ヲワケの功績を記す特別な記念品であり、彼と共に埋葬された品であると見て間違いないであろう。そう考えると雄略大君の親衛隊長は、武蔵国造家の出身者が努めるように決められていた事になる。稲荷山鉄剣銘によれば、ヲワケの上祖は磯城王朝の大彦であったという。大彦の子孫は、阿部〔安倍〕氏を名乗ったので、ヲワケはその一族だと考えられる、とあります。 一般に武蔵国造家は、出雲系の兄多毛日(えたもひ)の子孫であると言われている。 兄多毛日の祖先は、『播磨国風土記』や『伊勢国風土記』(逸文)に登場する伊勢都彦であり、旧西出雲王家・郷戸〔神門〕氏の出身者だと考えられている。 その話と符合するように、武蔵国に最初に現れた古墳は、出雲族ゆかりの前方後方墳であった。それは、出雲王国の四隅突出古墳の流れを継ぐ墓の形であった。 ところが、5世紀の後半になって、それまでの古墳とは離れた場所に、突然前方後円墳の稲荷山古墳が出現している。また稲荷山鉄剣銘には、兄多毛日らしい人の名前は書かれていなかった。 また稲荷山古墳は、かつて「曽根塚」と呼ばれていたが、その名前は大彦に因んでいる可能性がある。「大彦」とは皇太子の意味であるが、彼の個人名は出身地の曽大根〔奈良県大和高田市〕をとって「中曽大根(なかそおね)彦」と呼ばれた。その中の「曽根」が、古墳に名付けられたかもしれない。 ここまでの話で、稲荷山古墳の被葬者は、ヲワケの父「カサヒヨ」(笠原氏)武蔵国造、その祖は大彦と関係するのではないかと推測されます。 埼玉古墳群で、その稲荷山古墳(AD540位)から50年後相当の鉄砲山古墳(AD590)に隣接して立つ当社の創建を考察すると、 武蔵国造の乱(AD534)で笠原使主を勝たせた、中央勢力の物部勢力との共闘からも、武蔵国造のなかでの出雲系から物部系への変遷が考えられ、 さらに、奈良時代に武蔵国造になった武蔵不破(ふわ)麻呂は、丈部直(はせつかべのあたい)から武蔵宿禰へ昇格した。丈部直は阿部氏と関係の深い氏族であったので、そのことも阿部氏と武蔵国とのつながりを示しているとあり、 北武蔵開拓では出雲系が来る前よりその開拓に功績のあった磯城王朝の大彦が、前玉彦神として祀られたのではないか、そして前玉比売命はその妃ではないかと推測する。 とあります。
参考として、 御祭神の前玉彦命・前玉比売命についての別説では、 前玉比売命は古事記に記述があり、天之甕主神の娘神であり、大国主大神子孫の速甕之多気佐波夜遅奴美神の妃神である旨が記述されている。 前玉彦神は別名天忍人命とも言う。この天忍人命は先祖神、天火明命の曾孫にあたる。海人族である天火明命から天香語山命-天村雲命-天忍人命という系図となり、尾張氏、海部氏、掃守氏の祖にあたるともいう。系図によっては、天香語山命の父、つまり天火明命の位置に、前玉彦神(天忍人命)とするものがあって、天香語山命(高倉下命)の兄の天筑摩命(あめのちくまのみこと)を「掃部直祖」としている。天忍人命と同神とされている前玉彦神、天前玉命は、豊玉比瑪の弟の振魂命の子、つまり豊玉比売の甥にあたり、産屋に奉仕するということからして、こちらの系図もなかなか魅力的だ。 ちなみに「先代旧事本紀」によると、この天火明命は天照国照天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるあまひあかりくしたまにぎはやひのみこと)であり、物部氏の祖とされるニギハヤヒとも言われている。 武蔵国北東内陸部に位置している埼玉郡だが、内海の津である「埼玉の津」を通じて海人族である天火明命を祖とする物部氏やその一族である尾張氏等らと交流が我々が思っている以上に深ったのかも...
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由緒 前玉神社の創建年代や由緒については不詳ですが、延喜五年(905)に作成された延喜式神名帳に「前玉神社二座小」と記されている古社です。 近世に入り、忍城主成田下総守氏長の命により、忍城内に祀ってあった浅間社を当地へ遷座したといわれます。 明治六年(1873)に郷社に列格しました。 明治四十一年(1908)当村付近の神社を合祀してできた明治神社があります。
境内社「浅間神社」に関する江戸時代の口承 祭神木花開耶姫命にして、「延喜式」に載せたる前玉神社なれば郡中の総鎮守なりと土人いへいり。 されど屈巣村の傳へには、当社は式内の社にはあらず、昔富士の行者己が命の終る時に臨み、当所にのみ雪を降すべしといひしに、六月朔日終穏の日、果たして雪の降りたることあれば、成田下総守氏長奇異の思をなし、此所に塚を築き、家人新井新左衛門に命じて、忍城中にありし浅間社をここに移し、則成田氏の紋をつけて、行者の塚上に建り。 されば忍城没落の後、彼新左衛門屈巣村に住せしより、子孫今の五郎左衛門に至り祭礼毎に注連竹を納むるをもて例とすと。
社地の様平地の田圃中より突出せる塚にて、周り二町程、高さ三丈余、四方に喬木生い茂り、頂上は僅に十坪程の平地にして、そこに小社を建つ。 これを上ノ宮と云、夫より石階数十級を下り、又社あり、これを下ノ宮と云。
相傳ふ、此塚は天正の頃下総守氏長の築きし塚といへど、其様殊に古く、尋常のものにはあらず。 上古の人の墳墓地なるも知るべからず、されば当社の鎮座も古きことにて、彼行者の霊社なりと云は、尤便事にて取べからざつは勿論なり。 成田氏の紋を記せるは、天正の頃彼の家より造立してかくせしにや。 されど天保天和等の棟札のみを蔵て、余に證すべきこともなければ、詳かなることは知るべからず。 (「新編武蔵風土記稿」参照)
所蔵文化財 行田市指定文化財(建造物)「前玉神社の大鳥居」 この鳥居は、延宝四年(1676)十一月に忍城主阿部正能家臣と忍領氏子達によって建立されたものです。 明神系鳥居左側の柱に由来を示す銘文が刻まれ、江戸時代における浅間神社の隆盛を伝えています。 (「境内案内板」参照)
行田市指定文化財「石燈籠」 元禄十年(1697)十月十五日、地元埼玉村(行田市埼玉地区)の氏子一同が奉納したものです。 本殿に向かって左側の石燈籠には、「前玉の小埼の沼に鴨じ翼きる 己が尾に降り置ける霜を掃うとにあらし」(万葉集「小埼沼」) 右側の石燈籠には「埼玉の津に居る舟の風を疾み...
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