社伝によると仁徳天皇68年(380年)、この地方を襲った大地震に際し、仁徳天皇の勅願により応神天皇を祭神として創建されたものである。天平勝宝年間の古記では、顕宗天皇が膳部料を献じ、仁賢天皇が四千余町の神領を寄進したとしている。また、推古天皇時代(592年 - 628年)にも大地震があり、推古天皇は「鎮地大神」の親筆を捧げて国家安穏を祈願すると共に社殿を造営した。さらに天武天皇がこの地の税の3分の2を寄進、文武天皇が宝剣「天晴彦(あめのはるひこ)」を奉納したと言う。
寛永14年(1637年)に書かれた『相模国大中郡鶴峯山八幡宮之記』[1]によれば、当社は石清水八幡宮より130年以上前の神亀年間(724年 - 729年)に宇佐神宮から勧請を受け、これにより当地が八幡庄と呼ばれるようになったのだと言う。さらに聖武天皇より相模国における一国一社の霊場とされた。『新編相模国風土記稿 巻之48』[2]では、神亀年間に聖武天皇が諸国一宮へ法華経を納めた際、当社へも納めたのだとする社伝を紹介している。
『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月9日の条に源頼朝が北条政子の安産を祈願した神社として「八幡宮」の名が見え、この時に神馬が奉納されている。『新編相模国風土記稿 巻之48』[2]では、当社は古より相模国第5格とされていたが八幡宮とのみ称して自身を五宮とは唱えていなかったと注記したうえで、『吾妻鏡』建久3年8月9日の条では単に「八幡宮」としか記載が無いが「四宮前取大明神」の次順にあることから考えて、これは当社のことであると述べている。
『相模国大中郡鶴峯山八幡宮之記』[1]によれば、武田信玄が北条氏康を攻めた際、当社は陣所とされて戦火に遭い、社殿や旧記・古縁起を焼失した。
天正19年(1591年)徳川家康が御朱印地50石を寄進した。また、慶長年間(1596年 - 1615年)には徳川家康が自ら参拝し、同年間の末頃に伊奈備前守忠次へ命じて戦火で荒廃していた社殿を再建させている。さらに正保3年(1646年)江戸幕府は社殿営繕料として山林2ヶ所を寄進した。明和2年(1765年)平塚宿の僧侶本誉還真(ほんよかんしん)が18年間集めた浄財で青銅の鳥居を奉献した。『新編相模国風土記稿...
Read more80 平塚のシンボル、八幡様
大分の宇佐神宮を八幡神社の総本社とし、全国44,000社を持つ一大勢力。 清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた。
天皇を守る神として、大和朝廷時代ごろから武力制圧の神として崇拝され、天皇の血筋を引き継ぐ武士たちの信仰の対象となっていた。
平塚市の田村という地名、800年ごろの坂上田村麻呂が陸奥征伐した道程だったことが由来の一つではないかといわれているが、坂上田村麻呂は東北に八幡信仰を広げている。 HPでは、仁徳天皇の御代68年(380年)が創祀とされていますとのことなんで、田村麻呂との関係もあったかもしれませんね。
平塚八幡宮も、相模國一國一社の八幡宮として、歴代の天皇や源頼朝公をはじめとする武士からも崇敬を集めていたのでしょう。特に平塚は鎌倉のおひざ元。頼朝にとっても、とても重要拠点だったに違いない。
平塚八幡宮のある場所、平塚駅前とともに高台、周りは相模川含め、氾濫多く、湿地帯だったと推測しています。意外と街道からは飛び地。江戸時代になるまでは、東海道は、実は古東海道と言って、田村の八坂神社、寒川神社あたりに街道があった。 源氏のご加護が薄れて、さみしくなったのでしょうか、すたれてしまったようです。
戦国時代が落ち着き、江戸時代になり、家康、湿地帯開発のエキスパートが相模川の開発に乗り込んだのでしょうね。中原街道の起点となる中原御殿をレモンガススタジアム平塚近くに構え、開拓に取り組む。東海道を今の旧東海道に移し、平塚宿を造営。近くにあった平塚八幡宮を宿場町の活性化のために盛り上げた?いや、ひょっとすると八幡太郎義家の家を名乗った家康、八幡さんを盛り上げるために街道を旧東海道に移設し平塚宿をつくったのかも・・・。
明治以降は、鉄道が引かれ、平塚に工場が集まり、交通の要所となって人口が増加するとともに街のシンボルでもある八幡さんがさらに発展、今に至ったのかな?
歴史とともに平塚八幡宮に想いをめぐらしてみました。頭の整理整頓が必要です。
八幡さん前の交差点の陸橋、交差点の中心でクロスする形、こちらも頭の整理が必要です。境内にいたポニーも不思議。 七夕まつりの盛大さにも驚き、境内の笹に「おいしいリンゴがたべられますように」という短冊がかかっていたのも楽し、面白さをしっかりと感じさせていただきました。 ...
Read more神奈川県平塚市浅間町に鎮座する平塚八幡宮と境内社の弁財天と鶴峯山稲荷の3種直書き御朱印を頂きに参拝。
鶴峯山八幡宮と称えられた古い社で、仁徳天皇の68年。この地方に大地震があり、人民の苦難のさまを聞召した天皇が詔して国土安穏祈願のため応神天皇をお祀りしたのが創祀。
天平勝宝の古記によると、顕宗天皇が、小年魚贄の膳部を定めてその料として、年々稲秀、麦、大豆を多量に献げられ、仁徳天皇は四千余町の土地をお寄せになられました。
推古天皇の代、この地方にまた大地震があり、人民の苦しみを見かねて天皇は”鎮地大神”のご宸筆を捧げて、国家安穏を祈願され、新たに社殿を造営になられ、天武天皇はこの地の税の三分の二をご寄進になり、文武天皇は”天晴彦”の宝剣を奉納になられたことを伝えて居ります(これが平塚八幡宮の御朱印が、「鎮地大神」と書かれている理由)。
寛永14年筆録の八幡宮記、新編相模風土記によると、聖武天皇は相州一國一社の霊場として法華経を奉献されたということです。 岐阜県高山市山口に鎮座の桜ヶ岡八幡神社(旧郷社)は寛治元年、当宮のご分霊が勧請されたもので、高山祭で有名な桜山八幡神社の本社です。
吾妻鏡によると、建久3年源頼朝は夫人安産のため神馬を奉納。
天正19年には徳川家康は社領五十石を寄進し、慶長年間には自ら参拝の上、伊奈備前守に命じて社殿の再建を行っています。正保3年幕府は社殿営繕料として山林二ヶ所を寄進。
明治6年、官の達示により社名を八幡神社と改称しました。
相当な古社ということで、古代からこの辺りに人居があった事が分かります。 場所は平塚駅北側へ5分ほど歩いた所で、国道1号沿い、市役所や美術館等の文化施設が集まる中心部にあるものの、神社境内は鎮守の森が見事に繁り清浄な空気に溢れています。
私が訪れたときは国府祭少し前の時期で、限定の書き置き2面御朱印が頒布されていたり、北条政子の安産祈願の神馬奉納を受け継ぎ、白馬が神馬舎の中で養われていたりしました。
ちなみに弁財天は、湘南ひらつか七福神という七福神巡りの一社と...
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