前鳥神社 (さきとり じんじゃ)は 前鳥さん (さきとりさん) とも呼ばれ御祭神の菟道稚郎子命( うじのわきいらつこのみこと )を祀っていることで昔より修学の神、学問の祖神として霊験あらたかと伝わります。 菟道稚郎子命を祀る神社は全国で2社のみで京都府宇治市の宇治神社と当社のみです。
前鳥神社の創建年代は不明ですが、由緒によれば、四之宮(しのみや)の地名は、平安時代に始まり、それ以前には「さきとり」とも謂れておりました。 天平7年 (735)年閏11月10日に相模国司により「相模国封戸租交易帳(さがみのくに ふこ そ こうえきちょう)」なる文書が作成されて中央政府に報告されました(正倉院に収蔵)
この交易帳(年貢の計算帳)に大住郡埼取郷に戸数50戸あり、食封(じきふ)は「從四位下三島王」「田は、178町2段308歩」、「不輸租田(ふゆそでん)48町7段 92歩」、「見輸租(ゆそでん)129町5段216歩、「租(そ)1343束4把」「納官(?)971束7把」、「給主(きゅうしゅ)971束7把」の記載がある。 ---------------------------- 相模國 ①封戸 ②租 交易帳(さがみのくに ふこ そ こうえきちょう) 「大住郡 埼取 ④郷」
①封戸(ふこ)… 律令時代,上級貴族,神社,仏寺などの封禄 (ほうろく) である③食封 (じきふ) にあてられた⑤課戸(かこ)
②祖(そ)…庸(年間20日の労役の義務)、調(絹2丈と綿3両を収めること)と並ぶ律令制の税の一。口分田・位田・賜田・功田などの面積に対して課税され、収穫量の約3パーセントの割合で、稲で納めさせた。
③食封 (じきふ) …律令制において、親王・貴族・寺院などに俸禄として封戸(ふこ) を支給したこと。特定の戸を封戸として指定し、そこからの租の半分と庸調のすべて、および仕丁の労役を徴収する。位階による位封、官職による職封、勲功による功封などがある。
④郷(ごう)…律令制において、地方行政における社会組織の単位をいい、基本的には50戸をもって1郷とした。
⑤課戸(かこ)…令制の税制上,⑥夫役 (ぶやく) を課される者が1人以上いる家。官僚に給与される封戸 (ふこ) も課戸であり,課戸は令制国家の財政的基盤であった。課戸を基準とした封戸は,課戸内の課口人数に差があり,その収益に差が出て不公平なものであったから,この弊害をなくすため,慶雲2 (705) 年には4丁で1戸とし,さらに天平 19 (747) 年には1戸内に正丁5~6人,中男1人を標準課戸と定めた。『延喜式』には,正丁4人,中男1人をもって1戸となす,と定められた。
⑥夫役 (ぶやく) … 賦役とも書き,「ふやく」とも読む。人夫役の意。 律令制のもとでは庸 (よう) ,歳役 (さいえき) など「えだち」と称された。荘園制では領主の佃 (つくだ) の耕作その他の土木工事,年貢,貢納物の運搬などがあり,武家社会の大名のもとでも陣夫,運搬役,助郷役その他が課せられた。武士階級の軍役,警固役も広い意味での夫役といえる。江戸時代になると,幕府や大名が農民を夫役させることが少くなり,制限もされた。武士の離村によって夫役の代りに夫米や夫銭を出させ,それで必要な労働力を徴発した。
⑦不輸租田(ふゆそでん)…律令制時代,国家に納入すべき田租を免除された田地のこと。寺田,神田,職田などがこれにあたり,やがて位田,功田なども不輸租化した。平安時代に入り,荘園の成長に伴ってまず寺社領荘園,次いで一般貴族の荘園がこの特権を獲得するにいた...
⑧見輸租(ゆそでん)… 律令制下で,租を納める田。見任国造 (げんにんこくぞう) 田,郡司職田,采女 (うねめ=女官) 田,口分 (くぶん) 田,墾田をいう。 (→不輸租田 )
⑨給主(きゅうしゅ)… 中世,荘園・国衙領において,上級領主から所領の管理(所務)をまかされ収益権を与えられるとともに,年貢課役を上納する責任を負った者。〈給主〉の呼称が出現したのは荘園制の形成される12世紀初めである。伊勢神宮領では,神領田の地主として作人から官物(かんもつ)を徴収し神宮に上納する者を給主と称した。また御厨(みくりや),御薗(みその)にも給主がおかれ神宮の禰宜(ねぎ)層が補任された。その職権は,荘官の補任,年貢納入,紛争の際の訴訟等を担当するもので,一般荘園での領家,預所にあたっている。 -------------------------------- 延長5年(927年)にまとめられた延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に「官社」として指定された相模國の十三座の一つであり、相模國国司の祈願神社となりました。
養老年間 (717~723) には、相模國の國府祭が開始され、その頃から四之宮と呼ばれ、社号を四之宮大明神というようになる。 やがて前取郷が四之宮郷と呼ばれるようになり、更に社号をもって地名とされました。
さらに鎌倉時代には幕府庇護もあり、建久3年 (1192) 8月には源頼朝公夫人政子の安産祈願にあたり、神馬奉献も賜っています。 このことは『吾妻鏡』にも記録されております。 徳川家康は天正19年 (1591) 11月、武運長久祈願のため朱印地10石を寄進、あわせて社地二千百余坪を除地(じょち=年貢米免除地)として与えました。
創祀以来、当神社は神官がつかさどり、前取庄または四之宮庄として中世まで、四之宮、新土 (平塚市) 長沼 (厚木市) など広く神領としていた時代がありました。
近世初期からは、古義真言宗の「雪霜山鏡智院」が別当(べっとう=神社を管理する寺院)とし祭事のすべてを管掌してきましたが、明治の廃仏毀釈で「鏡智院家成海法印」が僧職から神官に(僧侶の神職への転向)職変えして代々神職として現在に至っています。
ご祭神は「菟道稚郎子命」を祀る神社は極めてまれで、東日本では当社のみと言われている。 菟道稚郎子命 ( うじのわきいらつこのみこと ) 大山咋命 ( おおやまくいのみこと ) 日本武尊 ( やまとたけるのみこと )
国府祭 5月5日 平安時代、相模國の國府が餘綾ノ郡柳田 (大磯町国府)...
Read more四之宮は母方の祖父母の家がありました✨ 幼い頃から前鳥神社に良く遊びにいったり、お正月は必ずお参りに✨ とても気の良い神社です。
【社務所でのエピソード】 祖父母から貰ったお年玉をポシェットに大事に入れて、真っ先に前鳥神社へ✨ 前鳥神社の宮大工を手伝っていた祖父。 その祖父が「新しい熊手を買わないとな😃」と言っていたから、 幼い頃の私は屋台にも目もくれず、 社務所に並びました。
「熊手ください(^^)」と言った私に 社務所の方々はとても優しい笑顔で 「大きいのかな?小さいのかな?」と聞いてくださり、小さい頃の自分は「小さいの」と言って、すっごく嬉しくて おじいちゃんの笑顔を楽しみに帰路に着きました。(写真参照✨)
神社は、子供の自分にとっては神様と触れる神聖な所でもあり遊び場でもあり 神社にまつわるエピソードは家族の中で、 とてもあたたかく、そして優しく大事に記憶されています。 これからも宜しくお願いいたします✨ (^人^)
2022.8.10.Wed埼玉県より一人旅で車で参拝に伺いました。祖父母のお墓参りに土屋霊園に行く前に立ち寄りたかったからです。 感染予防に気遣いながら、4時間かけて平塚へ。
前鳥神社の狛犬さんにご挨拶をして 参道を歩くとアゲハ蝶がヒラヒラと私の回りを飛びます。なんだか自然と涙が出て止まりませんでした。
神様に、やっと、やっとご挨拶に伺えました。 小さい頃からのお礼を神様にお祈りしました。 あたたかい涙は止まりません。 とても、あたたかい空気。 前鳥神社のやさしい気とまるで祖父母に抱かれている様なやさしい感覚でした(^^)
そして、思い出の社務所へ。 じっくりと拝見させていただき、 仕事守りをいただきました。
神様とお話ししたくて、おみくじを引きました。 巾着に入った可愛いおみくじです✨ その内容が泣けて泣けてありがたかったです。 トトロの森の募金もして(この木々に小さい頃から育まれていたので) その横にあった松ぼっくりをひとつ、大事にいただいてきました。
真夏の灼熱の時間にゆっくり境内を散策していた私は不思議に思われたかも知れません。
小さい頃からの崇敬神社。 今は亡き祖父母が大事に通っていた前鳥神社。
とても、感慨深く 参拝させていただきました。 大好きで大事な神社です(^人^)✨
約、30年振りに伺えました。 昔と変わらずに存在してくださり また、迎えていただけて本当に嬉しかったです。 ...
Read more❶【参考 新編相模風土記稿 1830年】
四ノ宮明神社
村の鎮守である。社前に相模国13座の内前取神社 とほる石塔がある。 延喜式神明牒に名が載っている。前鳥(さきとり)神社とはこの神社である。
1192年(建久3年)8月 源頼朝が当社に神馬を奉るとある。 (❷【参考 東鑑】) 1591年(天正19年)11月 社領10石の御朱印を賜る。
淘綾郡国府本郷村(神奈川県大磯町国府)、神揃山(かみそりやま・大磯町国府本郷)へ渡輿がある。(❹【参考 5月5日渡神輿】) 当社神輿(みこし)供奉(ぐぶ・行列に加わる人)の者に4月の晦日(みそか・末の日)米1升を椀に盛り、芋の葉の汁物、干菜菔蕃椒(ほしだいこん唐辛子)をあえものとしてもてなす。 これを麥(麦)振舞といわれている。
[社寶] △面1枚 日本武尊の面といわれる。 △古瓦1枚 伝来つまびらかならず。 △鐘楼 鐘は寛政2年(1790年)の再鋳である。
[鎮座地] 四ノ宮村 [社地] 東西72mあまり(40間餘)南北270m(150間) [祭神] 菟道稚郎子尊...
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