有岡城🏯は、信長の過信の荒木村重の居城です。摂津国の伊丹氏によって300年統治し、建てられていた伊丹城を天正2年(1574年)に荒木村重が攻め落とし、大改修をし、有岡城と命名しています。当時は豊臣秀吉は中国地方司令官とし、中国地方の攻略をしています。近畿地方司令官の明智光秀が亀山を攻略している時期になります。秀吉が別所長治の三木城を攻めていました。その折りに荒木村重も織田方として参戦していましたが、三木城主の別所長治や毛利元就についてしまい、三木城参戦から、有岡城に戻ってしまいました。織田信長はこの行為に対して謀叛とみなし、三木城攻めの背後から攻められることを心配し、光秀や黒田官兵衛に説得に向かわせますが、応じず、しかも黒田官兵衛を土牢に幽閉しました。有名な話しとして、この時の土牢から見える藤の木の花をみて、生きる勇気を見出したといいます。この関係で黒田家の花紋を藤巴にしたといわれています。現在もJR伊丹駅前に復元した藤の木の棚が設置されています。有岡城の東側にあるイオンモール伊丹の住所が伊丹市藤の木になっていて、昔をしのべます。参考ですが、有岡城を舞台にした直木賞受賞作の「黒牢城」に詳しく書かれています。後の天正7年1579年は信長に滅ぼされました。荒木村重は織田信長と戦う為に、有岡城を総構えにしています。総構えとは、城や城下町を土塁や石垣で囲いをつくることです。東西800メートル、南北1.7キロメートルの巨大なものを作ってます。現在も残っている場所があります。城の東側は天然の要害の猪名川があります。現在川の東側は伊丹空港が✈️あります。北側の守りとして、猪名野神社⛩が建っていますが、境内には土塁や石垣がのこっています。岸の砦と言われてます。南側の守りは、鵯塚砦がありました。現在は有岡小学校の南側とされてますが、遺構はないようです。西側の守りとして、女﨟塚砦がありました。現在は曹洞宗の墨染寺が建ってます。寺内には、女郎塚や、村重の9層の供養塔がのこってます。女郎塚は、信長は城に婦女を集めて焚殺していますので、その為女郎塚の供養塔があります。有岡城の戦いの1年前には、城主の村重は隣りの尼崎城まで毛利軍な応援を頼みにいっていますが、もどってはいないですし、とり戻してに行った家臣も戻らなかったといいます。結局有岡城には、婦女のみしか残ってなかったらしいです。信長は、尼崎城にいた村重の家臣は尼崎七松にて処刑されています。七松八幡神社には、その慰霊碑があります。信重の妻や荒木一族は京の六条河原で斬首されています。他の家臣の婦女子は有岡城に集め、焚殺しています。有岡城アクセスは大阪駅から福知山線に乗り伊丹駅下車...
Read more有岡城は、JR福知山線伊丹駅西口を降りてすぐのところにあります。というか、伊丹駅を作るために有岡城本丸の東半分が破壊されてしまったといった方が正確でしょうか。 自然の地形によって交通の要衝となっているところに城が築かれるわけですが、もちろん鉄道を引くときにも交通の要衝を通らざるを得ないので、城跡となっているところは線路が引かれやすいところでもあります。長篠城や鉢形城など、城の中を線路が突っ切っているところはたくさんありますが、地形を考えれば当然であるとも言えます。 しかし実際は、もともとの有岡城は極めて広大な城でした。当時では珍しい「総構」だったようです。 駅の東の方には川を挟んでイオンモールがあるのですが、そこに辿り着くまでの橋の上から見ると、川面から本丸まで相当の比高差があって、当時は天然の要害であっただろうことが伺えます。 有岡城主の荒木村重は、もともと織田信長の部下で摂津方面攻略の主軸でしたが、天正6(1578)年に謀反を起こし、一年近くも立て籠もって対抗します。信長の攻撃を一年耐えるというのは、なかなかの堅城です。 まあ信長包囲網で毛利家や石山本願寺のプレッシャーがあって、信長としても村重だけを相手にするわけにはいかなかったという事情もありますが。 村重の説得に訪れた黒田官兵衛が一年間幽閉されたのは、2014年度のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』でも描かれて有名なエピソードですね。落城後の村重親族の悲惨な最期も印象的でした。村重自身は、本能寺の変で信長が死んだ後も生きながらえるという。明智光秀も説得に訪れているので、2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』でも有岡...
Read more☆1度来てみたかった織田信長vs荒木村重反旗翻した謀叛の地、有岡城址(伊丹城)、国指定史跡だったんですね😲
☆JR伊丹駅の目の前、周りは住宅街でマンション多数、石碑ぐらいで何も無いだろうと期待せず訪問、有りました主郭跡周辺に一部復元を含めて堀跡・井戸跡・建造物礎石跡・本丸石垣も「主郭」が少し高台になり周りを散策、少し雰囲気ありました😁 古地図の城絵図拝見、東西800m×南北1700mの戦国時代の一武将としては珍しい『総構(そうがまえ)』の城郭構造、東を背に猪名川が天然の濠を形成、主郭部を起点に扇状に二重三重の土塁と堀、岸の砦・上臈塚砦・鵯塚砦と3ヶ所の砦で防御強化した堅固な城郭‼️ 1578年(天正6年)荒木村重が織田信長に突如反旗、約1年に及ぶ籠城戦、説得に赴いた小寺官兵衛(黒田官兵衛)も幽閉され信長には裏切られたと勘違いされ踏んだり蹴ったり、荒木村重「花隈城」へ移動、有岡城陥落後は尽く抹殺670名⚔️
★不思議だ荒木村重★ ・織田信長に重用されていたのにナゼ反旗🏴 ・何で毛利輝元と本願寺顕如と足利義昭に同盟の誓書、この時期に⁉️ ・織田信長に捕まらず毛利氏に亡命し生き延びる🐎 ・本能寺の変後に堺に復帰し豊臣秀吉に仕え千利休門人(利休十哲)に🍵 ※明智光秀の「本能寺の変」に合い通じる匂い...
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