鹿児島では色んなところで、歴史上の人物と会うことが出来ます。萩も同じ様な感じで、どちらも魅力的な所です。 以下引用させて頂きました。 日本の近代化に尽力し、西郷隆盛、木戸孝允と並び明治維新の3傑と言われた大久保利通のモニュメントです。 銅像は、没後100年を記念して1979年9月26日に中村晋也氏によって制作されました。本体4.3m。銅像の足元には、大久保が暗殺された際に一緒に亡くなった馬車夫と馬の像も彫られています。 (大久保利通について) 1830(天保元)年~1878(明治11)年 高麗町の川岸の近くに生まれ、まもなく加治屋町に移り住んだ。 西郷隆盛より2年8ヶ月下で、学問好きな父に見守られ、西郷たちと一緒に郷中教育を受けて成長した。また、藩校の造士館に通学し、無参和尚から禅を学んだ。 15歳のとき、藩の文書を取り扱う記録所の書役助となって役所勤めをするようになったが、19歳のときに有名なお由羅騒動がおこり、父は喜界島に流され、利通もやめさせられた。その後、斉彬が藩主になると、大久保父子は許され、利通はもとの仕事に戻ることができた。 斉彬の死後は国のために尽くすことを考え、藩主忠義の父、久光の信頼を得て、久光の下で幕府の政治の改革に成功し、1863(文久3)年には御側役という高い地位まで上り、薩英戦争を戦い、英国との間に講和を成立させた。 翌年、西郷が沖永良部島から呼びもどされると、大久保は西郷と共に薩摩藩全体を動かし、倒幕運動を進めていく中心的人物となり、幕末のめまぐるしい政治に指導的な役割を果たした。 1867(慶応3)年、幕府が滅び、天皇を中心とする新政府の方針が打ち出された。 明治政府ができると、大久保は参議(今の大臣)となり、さらに1871(明治4)年には大蔵卿となって西郷などと廃藩置県をやりとげ、近代的な統一国家を実現した。 廃藩置県の大仕事が一段落すると、大久保は岩倉具視ら政府のおもな人々とヨーロッパを回り、1873(明治6)年5月に一足早く帰国した。しかし、帰国してすぐに朝鮮への使節派遣問題をめぐって、西郷隆盛とするどく対立。西郷が参議をやめ、鹿児島に帰ってからは、大久保が政府の中心となり、内務卿もかねて政治の実権をにぎることになった。そして、事実上の日本の首相として、地方の政治制度を整えたり、地租改正を実施したり、産業を盛んにする殖産興業の政策など日本の近代化に積極的に取り組んだ。 西南戦争が起こる前、大久保は鹿児島に帰って私学校の生徒を説得しようとしましたが果たさず、戦争後は郷里鹿児島の士族の生活を救うために多くの仕事を与えたりして心をくばった。 西郷とともに、幕末から明治にかけての日本を背負って立った大久保利通だったが、西南戦争の翌年の1878(明治11)年、紀尾井坂で石川県の不平士族島田一郎らにおそわれ、47歳の生涯をとじた。 大久保の「爲政清明」は、政治をするには清潔で、つつみかくしがあってはならないということであり、この言葉は彼の生き方を示していると言える。
基本情報 住所〒892-0847 鹿児島県鹿児島市西千石町営業日通年 交通アクセス鹿...
Read more大久保利通は今でこそ西郷隆盛並ぶ偉人扱いされてますが、昔は西郷隆盛側に付かなかった者は裏切り者扱いで特に大久保利通は功績を残しているにも関わらずかなり嫌われていた様ですね。 実際、この銅像を建てる場所も揉めに揉めて当初は西郷の絶命した洞窟か西郷の銅像に並べて建てる話が持ち上がるが「西郷隆盛を裏切った奴の銅像を西郷隆盛の横に建てるとは何事か!」と却下。大久保の生家跡地に建てる案が出たものの西郷と大久保は生家が近くそれも却下、挙げ句この銅像の制作者の家に「大久保利通の銅像を制作者はお前か?さぞかし憎たらしい顔の銅像なんだろうな?」と夜に電話がかかって来た事もあったそう。 そうした紆余曲折を経て現在の高見橋というポジションに落ち着いてみたいです。除幕式には機動隊が出動したとかしなかったとか(;´_ゝ`)。
こちらを通りかかるとついつい銅像後ろに回り込み、制作者がオーダーされてないにも関わらずこっそり彫ったと言われる台座の馬の彫刻を見てしまいます。 大久保利通の後ろの踵の少し右辺りの台座に目を凝らしてやっと見える程度ですが前足を上げた馬が確かに居ます。 これは制作者が大久保利通だけでなく共に犠牲になった馬達を想っての事だそう。噂で同じく犠牲になった使者も掘ってあると聞いたことが有りますがよく確認できませんでした。 そしてこの大久保利通のポーズは暗殺の時に襲撃者に対し「静まれぃ!」と立ちはだかった貫禄ある姿です。 最期まで...
Read more西郷隆盛像を見た後、大久保利通の銅像も見てきました。 この銅像は、鹿児島中央駅から徒歩5分ほどの、甲突川(こうつきがわ)に架かる高見橋のたもとに立っています。大通り沿いなので、市電に乗っていても見つけやすかったです。 西郷さんの像が軍服姿で仁王立ちしているのに対して、大久保さんの像は洋装で、コートの裾が風になびいているのが印象的でした。その立ち姿は非常にスタイリッシュで、「かっこいい」という口コミが多いのも納得の颯爽としたお姿でしたね。「スタイルが良くて、西郷隆盛像とは大違い」なんていう声もありましたが、確かにまた違った魅力があります。 明治維新の三傑と称される一人で、近代日本を築いた立役者ですが、銅像からはその凛とした雰囲気が伝わってきました。 また、この銅像が立っている近くの加治屋町は、西郷さんと大久保さんの生い立ちの地でもあり、維新ふるさと館も近くにあって、このエリアは明治維新の偉人を多く輩出した場所だと改めて感じました。 ちなみに、この銅像は没後100年を記念して昭和54年(1979年)に建てられたそうです。足元には、大久保さんが暗殺された際に一緒に亡くなった馬車夫と馬の像も彫られていると聞いて、歴史の重みを感じました。 鹿児島に来たら、西郷さんだけでなく、こちらの大久保さんの銅像も合わせ...
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