3世紀後半に作られたと思われる前方後方墳で、万葉集や大和物語に登場する悲恋伝説の舞台として知られています。 1922年3月8日に国の史跡に指定されています。 古墳の頂上までは階段で上がることが出来ますが、特に石碑などは無かったです。古墳内は地域の方が清掃されているのかとても綺麗でした。 古墳の東脇には小山田高家の碑と 田辺福麻呂の歌碑が建てられていました。 なお、説明板には下記のような説明がありました。
国指定史跡 処女塚古墳(おとめづかこふん) 指定日:大正11年(1922)3月8日
所在地:神戸市東灘区御影塚町2丁目 時期:古墳時代前期
処女塚古墳は、東灘区住吉宮町1丁目の東求女塚古墳および灘区都通3丁目の西求女塚古墳とともに古く万葉の昔からひとびとに知られた有名な古墳です。 大正11年に国の史跡指定を受けましたが、すでに墳丘の一部は道路で削られていました。 処女塚古墳の整備事業は、国の補助を受けて、昭和54年度から墳丘の整備をはじめ、昭和59年度に完成しました。 整備に伴う調査の結果、南向きの前方後方墳で、もとの大きさは、全長70メートル、後方部の幅39メートル、高さ17メートル、前方部の幅32メートル、高さ14メートルあり、後方部を三段築成、前方部を二段築成にしていたことがわかりました。 また、墳丘の斜面には石を葺いていましたが、円筒埴輪は立てておらず、数個体分の山陰地方の特徴を持つ壺形土器が見つかりました。 濠の状態については明らかにすることができませんでした。 古墳を造った年代は、出土した壺形土器などによって、3世紀後半と...
Read more処女塚古墳(おとめづかこふん) 全長70mの前方後円墳、築造時期は4世紀前半と推定。 国指定史跡。 この古墳については次のような伝説がある。(ウィキペディアより) 「神戸の東部から芦屋にかけてが、大阪湾沿岸の湿地に茂る芦を屋根にふいて葦屋(あしのや)と呼ばれていた頃の話である。 葦屋の菟原処女(うないおとめ)という可憐な娘がいて、多くの若者から思いを寄せられていた。中でも同じ里の菟原壮士(うないおとこ)と和泉国から来た茅渟壮士(ちぬおとこ)という二人の立派な益荒男が彼女を深く愛し、妻に迎えたいと激しく争うようになった。処女はこれを嘆き悲しみ、「卑しい私のために立派な男たちが争うのを見ると、生きていても結婚などできましょうか、黄泉で待ちます。」と母に語ると死んでしまった。茅渟壮士はその夜、彼女を夢に見て彼女が愛していたのは自分だと知り、後を追った。菟原壮士も負けるものかと小太刀をとって、後を追った。 親族たちは集まって、この事を長く語り継ごうと、娘の墓を中央に、男の墓を両側に作ったという。」 なお、この古墳の西200mに西求女塚古墳、東200mに東求女塚古墳があり伝説に登場する二人の男の墓として語り継がれてきた。(実際には築造された年代が異なるため、伝説とは...
Read more関西では余り見掛けない前方後"方"墳。実際に自分の脚で前方部や後方部に立ってみると、数理的に整った墳丘形状を通して古代人たちの土木技術力が伝わってきて、不思議な感興を覚えた。 「乙女塚」の名称の由来となった物語は、何らかの実際に起きた事件の記憶がベースになっているのだろうが、奈良時代の『万葉集』で和歌に詠まれ(墳丘東端の石碑に刻まれている)、平安時代の『大和物語』では二人の若者が水鳥を弓矢で射て乙女を争う話に変化し、...
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