🌸 大館にあって高徳山と号した。1575(天正3)年建立され、高山寺と称したが、1602(慶長7)年光善寺と改称した京都百万遍忍教寺の末寺である。後水尾天皇から山号と法衣を賜ったと言われている。19世紀中ごろに作られた美しい庭園があり、境内には桜の名木血脈桜がある。寺には松前藩10世藩主の子供・11世の主奥方等が祀られている
鐘楼門 仙台出身の岡鹿門が1890(明治23)年、松前に藩在して作った松前八景の中に光善寺の晩鐘として詩われた。ここで打たれた鐘の音がいんいんとして城下に鳴り響いたと言われるが、梵鐘は大東亜戦争中に強制買上されてしまった、現在ある梵鐘は1980(昭和55)年に京都より買い入れたもので重さ1t。本州より蝦夷地に渡って来た修行僧をいったんこのお寺に入れて再教育を行い道内各地に配置された
血脈桜 🌸⇒樹齢300年以上、松前を代表する桜の品種南殿の親木 📖血脈桜伝説 昔々、松前の城下に柳本伝八という鍛冶屋さんがおった。ある年春、娘静枝と一緒上方見物に旅立つ。江戸で遊び、お伊勢さんに詣り、京都・奈良を巡って桜花爛漫の吉野に辿り着いた。桜の美しさに魅せられた伝八親子は、しばらくこの地に宿ることにした。宿の近くには尼寺があり、親子は尼さんと親しくなり楽しい日々を過ごした。いよいよ、松前に帰ることになった別れの日、尼さんは静枝の手に一本の桜の苗木を握らせ「故郷に帰られた後は、この桜を私と思ってくださるよう‥」と伝えました。//帰郷後に伝八親子は菩提寺の光善寺の庭にその桜を植えた。やがて桜は見事な花を咲かせるようになり、人々を喜ばせた。そして、幾十年の月日が流れた春、見事に咲き乱れる桜の花を見ながら静枝は、その生涯を終えた。//月日は流れある年、光善寺の本堂を立て直すことになり、桜が伐採されることになった。明日は伐採という日の前夜、光善寺18世穏誉上人の枕元に美しい女性が現れ「私は死ぬ身です。どうか血脈(血脈とは極楽浄土へ行く証文)を与えてくださいますよう‥」と頼むのだった。上人は娘の熱心な願いにほだされ、血脈を与えた。//翌日の朝、上人が桜を見上げたとき何か白いものが風に動いているのを見つた。それは昨夜与えた血脈だった。上人は「さては昨晩の娘さんは、この木の精であったか」と悟り、桜伐採を取り止め、盛大な供養が行われた。そして今もなお、昔と変わることなく爛漫と咲き誇っている。上人の枕辺に現れた桜の精は静枝であったのでは?と、語り伝えられている
📖義経山の石碑 津軽海峡を越えて無事北海道に上陸した義経は、神仏に深く感謝、阿弥陀千体仏を刻んで義経山欣求院に安置した。その後、この寺は戊辰の役で火災に見舞われたが、不思議にも阿弥陀像だけは焼け残り、光善寺にあらためてまつられた。境内には"義経山"と刻まれた碑が残っている。この石碑の文字は、義経が矢尻で彫ったという。昔、松前に義経山欣求院というお寺があったので、その山号であったともいわれている 松城303光善寺 大石仏 明治の中頃まで現在の町民総合センターの後ろに殿様の観覧席などもあった大きな劇場があった。1797(寛政9)年、正月薮入りの日の興行に多数のお客さんが入場し、賑やかだったが、大雪の為屋根が倒れて多数の犠牲者を出した。その弔いの為当時の有志や住職によって、その地に建てられたものを1909(明治4...
Read more血脈桜で有名なお寺。血脈桜には、こんな伝説があります。松前の伝八という鍛冶屋が念願の上方見物に娘の静江と出かけ、吉野山に宿を取ります。その近くのお寺の庵主と静江は仲良くなり、帰郷の日に庵主は静江に一本の桜の苗木を渡し、この桜を私と思って育ててほしいと託します。静江は光前寺に桜を植え、年ごとに美しい花を咲かせて人々の目を楽しませていましたが、静江がなくなったのち、本堂立て直しのために切り倒されることになってしまいます。すると、お寺の住職の夢枕に美しい娘が現れ、血脈(在家の受戒者に授ける仏の教え。死後,棺におさめる。...
Read more光善寺(こうぜんじ)は、浄土宗のお寺です。光善寺は、初め高山寺と称し、天文2年(1533)、順譽了圓(じゅんよりょうえん)和尚により開山しました。のちに、高徳山光善寺と寺号を改めました。文化5年(1808)、天保8年(1837)、明治36年(1903)の3度にわたる火災により、建物の大半を失いました。宝暦10年(1760)建造の仁王門、弘化4年(1847)建造の山門が現存しています。 本尊の木像阿弥陀如来立像は、平安時代末期の作と考えられています。境内には、樹齢280年ともいわれる血脈桜(けちみゃくざくら)、源義経北行伝説にまつわ...
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