親鸞聖人と信願寺開基の唯信(ゆいしん)房との出逢いは、聖人の鹿島明神参りを抜きには語れない。当時は藤原家宮司が鹿島に任官されるのがならわしであった。聖人も藤原家の流れをくみ、身よりのない関東の地にあって、その血脈を求めたことは想像できる。その上、鹿島神宮には一切経が揃っており、その書見のために度々参詣したことは十分考えられる。また、鹿島、行方地方の教化もその大きな目的の一つであったに違いない。稲田から鹿島の道すじに橘村幡谷というところがあった。域主幡谷次郎信勝が治めていた地である。信勝は常に観音像を守り本尊としていたほど信仰が厚かった。建保四年(1216)八月十三日の夜のことであった。信勝の枕辺に、その守り本尊が現れて夢告した。驚いた信勝が城外へ出てみると、三日月を仰ぎながら念仏を唱える僧の一団がいる。信勝はさっそく域内へ案内して夜を徹して教化を賜った。親鸞聖人の「他力本願」の教えは、無常に悩む信勝にとって救いであった。さっそく聖人の弟子となり法名を唯信と授かった。 唯信はその後、各地を移り布教活動に励んだ。「親鸞聖人門侶交名傑」によれば、北へ進んだ唯信は奥州に道場を建て、その後、常陸国小瀬のあたりに寺基を移したという。さらに、寺の歴史は、慶長十年(一六〇五)水戸城西(信願寺町跡)に移築し、延宝九年(一六人一)火災に遭ったのを機に、水戸光因公の命により黄金若干並びに鞍馬入十頭を賜わって、現在の地に落ち着いたとされている。 開基唯信房は、親鸞聖人入滅後、九年間その墓を守ったといわれる。その折に、山陰地方にまで脚をのばし布教したと伝えられ、裏付けとして、島根県浜田市真光町顕正寺で、開基を唯信房とし、二十四輩二十三番を名乗っていることがあげられる。 このような例は他になく、ほぼ間違いないとされ、各地を巡った唯信房が、かなりの健脚...
Read more茨城県の経済を牽引しつづける‘幡谷’ご一族。 故 幡谷 祐一氏の菩提寺だそうです。
浄土真宗のお寺さんです。 こちらも幡谷さんのご出身地である旧 小川町(現...
Read more2023年4月、境内の藤棚が満開で見事です。
2023年2月、鐘撞堂の瓦葺替え工事も終わってました。梅の花がきれいに咲いてます。
2022年8月、ほぼ本堂は完成し、現在は内装工事をやっているようです。月命日でほぼ毎月一回のペースで信願寺を訪れ、少しづつ本堂が組み上がっていく様子を拝見しましたが、鵤工舎の寺社建築の素晴らしさに毎月驚嘆してました。建物好きの単なる素人ですけど、精緻と材料を極めた日本の木造建築は本当に凄いですね。何年も経った寺社も素敵ですが、ピカピカの木造建築も素晴らしいです。
2018年4月現...
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