かつて全国の小学校に銅像があった、勉学の象徴ともいえる存在だった二宮尊徳。その二宮尊徳を祀るのが、報徳二宮神社です。
二宮尊徳は報徳社を設立して、農村の救済運動を行なっていました。尊徳が安政3年(1856年)に亡くなった後も報徳社は存続し、関東・東海地方を中心に活動を行い、明治24年(1891年)に尊徳に従国位が贈られます。報徳社内において尊徳を祀る神社創建の動きが起き、明治27年(1894年)4月15日に二宮尊徳の生地である小田原の地の小田原城址に鎮座しました。
・二宮金次郎尊徳 (にのみや・きんじろう・たかのり) 天明7年(1787年)相模国(現在の神奈川県)足柄上郡栢山村(現在の小田原市)に産まれる。実家の二宮総本家は13石の田畑を持ち、屋敷を構える裕福な名主でしたが、父の利右衛門は遊興三昧で散財を繰り返しました。金次郎が5歳の時に南関東を襲った暴風で、近くを流れる酒匂川が氾濫し栢山村付近が濁流に流され、金次郎の実家の田畑が瓦礫の下に埋もれ、屋敷も流されてしまう。数年後に復興するも、今度は富士山の宝永の大噴火の時に蓄積された火山灰が土石流になり、再び屋敷と田畑が濁流に流れる。
そして父利右衛門は眼病を患い、金次郎は12歳で、父の代わりに酒匂川の夫役に就くも、年少のため稼ぎが足りませんでした。なので薪集めと草履作りで、一家4人の家計を賄わなければなりませんでした。
享和2年(1802年)貧困の中、最愛の母が亡くなり、幼い2人の兄弟は母方の川久保家に預け、自身は伯父の家に住み込み身を粉にして農業に勤しみます。その傍ら夜中は読者に励みましたが、灯りを点ける油を使い潰していたため、伯父から酷く罵られていたので、金次郎はアブラナを育て菜種油を作り、更に伯父の家で棄てられていた米の苗を密かに用水路で栽培し、1俵分の米を獲得し、伯父の家から独立します。そして親戚筋の岡部伊助宅、名主の二宮七左衛門宅に寄宿し、20俵の米を獲得出来るまでになり、20歳の時に実家二宮総本家を再興します。この時金次郎の身長は6尺(180センチ以上)あり、体重も90キロを超える巨漢でした。
実家の再興を果たした金次郎は、これを武家の世界でも通用させるため、小田原藩の槙島総右衛門(禄高200石)、岩瀬仁兵衛(禄高1000石)の家にそれぞれ仕官しそれぞれの家を財政再建を果たします。文化5年(1808年)母方の川久保家が困窮すると財政支援を行い、小田原藩家老の服部十郎兵衛(禄高1200石)の財政再建を行い、借財1000両を5カ年計画で完済してさらに貯蓄として300両の預貯金まで生み出す。自身も二宮総本家の伊右衛門跡を再興します。これが藩主の耳にも入り、金次郎は大久保家の9代藩主大久保忠真が、孝子節婦奇特者(善行を行なった者=現在の緑綬褒章に相当する)に選ばれる。
この時34歳の金次郎は小田原藩士となり、年貢制度の改正と、藩の侍に低金利でお金を貸付け出来る法律をつくる。38歳の時に、藩主より大久保家の分家筋の宇津家(禄高4000石)の領地再興を命ぜられる。当初は田畑が荒廃している状況から、最初は難航したものの、最終的に、精米426俵、1330俵と収入を挙げ、宇津家の領地に3000石相当の財政再建を果たします。
これにより、様々な大身の旗本から財政再建を依頼されるようになり、副勝三郎の領地再興を果たし、さらに大名家からも依頼が来るようになります。天保5年(1834年)谷田部細川家1.62万石(…肥後熊本藩52万石の分家筋)や下野(現在の栃木県)烏山藩2万石の石川家の財政再建を果たす。これは、たちまち幕府の耳にも入り、金次郎は幕府からヘッドハンティング される。下野真岡代官属使、日光奉行仕法、天領仕法になる。
・仕法とは…江戸幕府の役職。幕府や諸藩が実施する政治の指導役。今で言うところの経営コンサルタント、ファイナンシャルプランナーのこと。
アクセス JR東海道本線・湘南新宿ライン・上野東京ライン、東海道・山陽新幹線、小田急小田原線、箱根登山鉄道鉄道線、伊豆箱根鉄道大雄山線、小田...
Read more...นิโนมิยะ ซนโตคุ (Ninomiya Sontoku) นามเดิมคือ นิโนมิยะ คินจิโร (Ninomiya Kinjiro) เกิดในครอบครัวชาวนาฐานะยากจน แต่ไม่ให้ความยากจนและหน้าที่การงานอันเหน็ดเหนื่อยเป็นข้ออ้างบั่นทอนความมุมานะ หมั่นศึกษาหาความรู้ด้วยตนเอง อันนำมาซึ่งความสำเร็จ/ความมั่งคั่งในชีวิตอีกทั้งยังใช้ความรู้จากการอ่านและสติปัญญา แก้ไขปัญหาและพัฒนาเศรษฐกิจท้องถิ่นอันเป็นรากฐานของการสร้างชาติและพัฒนาประเทศจวบจนปัจจุบัน. ...การได้รับเชิญให้เข้ารับตำแหน่งจากทางการในการเข้าแก้ไขปัญหาด้านการเงินและการเกษตรตลอดจนการได้รับพระราชทานเครื่องราชอิสริยาภรณ์อันสูงส่งยิ่งดอกเบญจมาศ อันเป็นชั้นสูงสุดที่สามัญชนพึงจะได้รับ ย่อมเป็นเครื่องพิสูจน์ถึงแนวคิดและวิธีบริหารจัดการของ นิโนมิยะ ซนโตคุ ทั้งในด้านการเกษตร การฟื้นฟูและพัฒนาเศรษฐกิจอันเป็นประโยชน์ต่อท้องถิ่น. ...Hotokuninomiya Shrine ศาลเจ้าชินโตแห่งนี้สร้างขึ้นในปี 1894 เพื่ออุทิศให้กับท่าน นิโนมิยะ ซนโตคุ ศาลเจ้าแห่งนี้ยังมีชื่อเสียงในการประกอบพิธีแต่งงานแบบดั้งเดิม แม้มีพื้นที่ไม่มากนักแต่สงบร่มรื่น และมีจุดที่ควรเที่ยวชม อาทิจุดจำหน่ายเครื่องราง รูปปั้นท่าน นิโนมิยะ ซนโตคุ และเสาโทริอิ (Torii) ที่ถูกสร้างขึ้นมาใหม่จากความร่วมแรงร่วมใจของคนในพื้นที่. ..."ต้นทุน" คือปัจจัยสำคัญที่ธุรกิจต้องให้ความสำคัญ แฉกเช่นเดียวกับ"ต้นทุนชีวิต" ของแต่ละคนในสังคมที่แตกต่างกัน อันนำมาซึ่งหนทางในการดำเนินชีวิตที่สุขสบายหรือยากลำบากต่างกันไป ท่านนิโนมิยะ ซนโตคุ คือแบบอย่างที่คนทุกเพศทุกวัยควรศึกษาและเอาเยี่ยงอย่าง เพราะท่านกำหนดเป้าหมายชีวิตและมุมานะ เอาชนะต้นทุนชีวิตอันน้อยนิดของท่าน ดั่งสำนวน "คนเราเลือกเกิดไม่ได้...
Read more2025.4.28 朝のランニングの際 立ち寄りました。小田原に宿泊は初めてでしたので ご挨拶をさせていただきました。 小田原城の下方に位置するので 通りすがら 気軽に立ち寄れるのではと思います。 御祭神二宮尊徳翁さんを知らない方はいないですね。皆さんよくご存知かと思います。
江戸末期、多くの農村や藩を貧困から救い独自の思想と実践主義で人々の幸福を追求し数理、土木建築技術から文学まであらゆる才能を発揮した世界に誇れる偉人です。
二宮尊徳翁は 1787年に相模国栢山村の豊かな農家に生まれました。再三にわたる酒匂川の氾濫で田畑を流され、家は没落し、過労により両親は亡くなり、兄弟はばらばらに親戚の家に預けられました。金次郎は 、朝暗いうちから夜遅くまで汗と泥にまみれて一生懸命働き、その間余裕ができればわずかな時間も無駄にせず勉強をして、先人の教えを理解しようとしました。荒地を開墾して収穫を上げお金を貯め、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻し、一生懸命努力して24歳までに一家を再興しました。
毎晩勉強していた金次郎は、読書をするための油代を稼ぐために荒地に菜種を植え、たった一握りの菜種から7〜8升の取り入れになった経験や、捨て苗を荒地で丹精こめて育てて、秋には一俵の籾を収穫したことにより、自然の恵みと人の力の素晴らしさを知...
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