膳所城、瀬田の唐橋、石山寺、、、 近江八景図、六曲一双のうち右隻、でくくられる観光集中スポットですね!!(語呂がいい)
城跡は公園になっていて、ちょっとしたピクニック好適地ですよォ、、、鴨がいっぱいいて羽を乾かしている様子などはさすが琵琶湖畔、といった風景です すぐ北側に近江大橋があって、あれが唐橋、、、と誤解しやすいですが唐橋はもっと南に位置します
膳所城は関ヶ原の合戦にまつわる戦いで、大津城が要害として機能を疑問視されたことから築城された城だそうです 縄張りは築城の名手と謳われる藤堂高虎、わりとあちこち御城を見に行きますが、ほんと城つくりまくってますよね藤堂先生
さて、膳所城は譜代本多家六万石の居城として、その筋では知られていますが、1651年に本多俊次が入封するまで四家が目まぐるしく入れ替わっています この本多家は譜代中の譜代ですが、有名な二家とは違うあまり有名でない本多家です
もし城が残っていたなら、三大湖城と言われた膳所城のことですので、素晴らしい観光資産になったでしょうが、当時から琵琶湖の波の浸食による修理費がすごいことになっていたらしいので、維持管理が大変なことになったことでしょう、、、 そんな事情から、四層を誇った天守も藩主家の申し出で維新後、早々に廃城にしてしまったようです 兵火にさらされなかった城の施設は門などが近隣の神社や寺に移築され、今でも往時のものを見ることができるそうです
下記、資料による移築先 ・本丸帯曲輪門 → 膳所神社表門 ・南大手城門 → 鞭崎神社表門 ・北大手城門 → 篠津神社表門 ・本丸犬走門 → 若宮八幡神社表門 ・城内蔵 → 六体地蔵堂 ・本丸東二重櫓 → 芭蕉会館 ほかにも伝聞によると膳所神社北門、近津尾神社表門、新宮神社(草津市)参道横の門、泉大津の個人宅の門などが残っているらしいです
訪問には膳所公園の前を走る大津湖岸線を挟んで向かいにある駐車場が無料で使えます 電車の方は京阪石山坂本線の膳所本町駅が至近ですね 電車で行くと、もとの膳所城下町のあたりを通るのでなかなか趣深いです
膳所藩については近隣に膳所藩資料館や膳所歴史資料室、などの表記が見えますが開いてないらしいです(未確認)笑 詳しいのは大津市歴史博物館が研究に熱心な印象で、企画展の本など販売をされていますので、こちらも...
Read more現在の膳所公園に膳所城🏯がありました。1601年徳川家康が藤堂高虎に計画され、建てた平城になります。大津城の長等山からの砲撃がトラウマになり、移築したとされています。またセタの唐橋を制するものは天下を征するていわれ、東海道の抑えとして、立てられたといわれています。城主は戸田一西、本田康俊がなってます。本田家の家紋は立ち葵で残ってる門の瓦などにつかわれています。江戸幕府の天下普請代1号として建築されました。湖沿岸にあるため、波の浸食に悩まされて財政を圧迫していたといいます。大津城は、代官や湖上交通費などの収入があり、余裕がある財政ですが、膳所城は年貢米だけなので緊迫していたといわれてます。膳所城🏯の石垣には、五輪塔や墓石を利用していますので、発掘調査の時に出てきた墓石がつまれ、まとまれています。坂本城からの墓石が大津城にいき、膳所城までつかわれていることがわかっています。墓石をつかうのは、石不足もあるそうですが、最近は、城のおまもりとして使っていたといわれるように、なっているそうです。相模川な膳所城の周りに流れていますが、外堀としてつかわれていたそうです。川ぞいには、場所が一段高くなっている堀の跡がのこっています。その奥には、最近まで砲台跡があり、東海道から攻める敵を拒んでいます。家老の村松氏の屋敷には、長屋門を入ると、大砲を据える台場と周囲を囲む防塁の一部が残っています。大津城での大砲戦のトラウマなのでしょうか大砲台場が多くのこっています。膳所城は近くの神社や寺に門が移築されのこっています。高麗門が多いのが特徴だそうです。薬医門や、長屋門などもありました。和田神社の表門は膳所藩の藩校尊義堂の門を移築したものもあります。境内の銀杏の木樹齢600年は関ケ原の戦いのあと石田三成が京都に搬送される途中この木に結ばれていたといわれています。膳所の名前の由来は平安時代天皇に魚介類の提供していた御厨の場所からきているそうです。膳所焼きの窯元もあります。お土産に使われていたそうです。近くある御殿浜の地名には、殿様の別邸があった場所です。本田家の隠居跡地や庭がのこされていました。最近まで木が覆い尽くしていたらしですが、いまは切られて見ることがで...
Read more「瀬田の唐橋を制する者は天下を制する」という事で、大津城をそのまま使えば良かったものの、膳所の方が単に大津城からの距離が半分程度唐橋に近いというだけで造らせた城。 瀬田川起点付近に造ったお陰で、水流や波による浸食による修繕費で財政を逼迫させる一因に…。 廃城令後に天守以下全て、解体や移築されました。 (明治末期の地図には果樹園の記号が記されてますが…。) 1960年頃の航空写真をみると、本丸の形は、ほぼ原形通りでしたが、道路建設により埋められて陸続きとなり、公園整備で石垣がわずかに残ってるものの、改変されました。 門(馬出側)の位置も、交差点ピッタリの位置でもなく北約50ⅿのマンション駐車場の入り口っぽい部分辺りから道路にかけて門の桝形があったのではないかと思われます。 道路沿いの城壁や濠も、勿論遺構でも何でも無く、体裁程度の壁や濠です。 道路の向かい側、旧武家屋敷辺りに「城風展望台付き庁舎」を造る位なら、本丸跡に天守風建物を造れば良かったんじゃね?と思う今日この頃です。
追記:2018年の台風で倒壊した高麗門(大阪府泉大津市)が未だ復旧されずブルーシートに覆われたままです。 この際譲って貰い、膳所城跡に復元...
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